反董卓連合の結成

董卓の暴政に対して、各地でそれをよしとしない勢力が立ち上がり、
袁紹を盟主とする反董卓連合が結成されます。
ちなみに後の三国の袁紹指揮下として曹操は参加していますね。
また劉備・関羽・張飛らが反董卓連合に参加した記録は残されてはいませんが、
三国志演義では公孫瓚の指揮下として参加しています。
| 反董卓連合に参加した諸侯 | |
三国志演義→18人(十八鎮諸侯)
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正史三国志→13人
孔融・陶謙・馬騰・公孫瓚は不参加。 正確に述べると焦和(青州刺史)等も反董卓連合に立ち上がっています。
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陽人の戦い(汜水関の戦い/虎牢関の戦い)

沢山の群雄が参加した事で、
董卓軍を圧倒する兵力を集めれたにもかかわらず、
実際の反董卓連合は各々の思惑があり、
お互いを牽制したことで、まとまりがなくなっていました。
そんな状態であったからこそ、
各方面の戦いでも董卓軍によって劣勢を強いられたわけです。
そして反董卓連合最大の激戦と言われている汜水関の戦いが始まります。
汜水関は虎牢関と呼ばれたりもしますし、
三国志演義で登場している事で有名ですが、実際は陽人の戦いが正解です。
ここは董卓軍の呂布・華雄・胡軫といった人物が守った城なんですが、
この汜水関(虎牢関)の関所は当時なかったと言われているので、三国志演義でしか登場しません。
当時は関所ではなくて城が築かれていたようですし、
そもそも関所が築かれたのがこれよりだいぶ後の唐の時代だと言われていますし・・・
陽人の戦いの際に誰が大将なのかというと普通に胡軫という人物ですけど、
三国志演義では呂布の方が大将として描かれています。
それだけでなく、華雄の副将にまで落とされている始末です(笑)
また三国志演義では関羽が華雄を討ち取り、
劉備・関羽・張飛の3人で呂布と引き分けていますが、
実際は孫権軍が華雄を討ち取り、呂布を撃退しています。
ここで活躍したのは孫堅軍の程普になります。
もう少し詳しく言うと、胡軫と呂布の仲が非常に悪く、
大将であった胡軫を貶めるために呂布が自分の軍を罠にかけたなんて裏話があったりしますが、
そのあたりまで触れると話が非常に長くなるので、その話はここでは省きます。
そのあたりの話は下記事の中で触れているので、
興味ある方はそちらを見られてください。
董卓の洛陽放棄&長安遷都

優勢に展開していた董卓軍でしたが、
孫堅軍との陽人の戦いで状況は一転し、董卓軍は押され始めたのでした。
董卓は既に長安遷都を行っていましたが、
その後も董卓は洛陽に残っており、反董卓連合とその後も戦います。
しかしそこでも敗れてしまった事で、
都である洛陽を焼いて長安にさっさと退却してしまったのです。
これによって後漢の都として栄えてきた洛陽が廃墟と化してしまったわけですね。
もともとぎくしゃくしていた反董卓連合でしたが、
董卓が長安へ撤退したことと廃墟と化した洛陽の現状から、
董卓打倒の目的はどこえやら、仲間同士で争いを始めてしまうのでした。
劉岱を橋瑁を殺したり、曹操が王匡を殺したりともうめちゃくちゃです。
そして最終的に目的を果たさず、反董卓連合は自然消滅的に終わってしまいます。
それからは各々が、
弱い者を蹴落として領地拡大を目指すようになっていきます。
完全に群雄割拠時代へ突入していくわけですね。

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