戯志才&荀彧

何顒が王佐の才と高く評価し、曹操が「我が子房」と高く評価した荀彧ですが、

荀彧の父親である荀緄じゅんこんも八龍の一人に数えられた人物でもありました。

 

ちなみに曹操が言葉にした子房とは、

かつて劉邦に仕えた名参謀である張良の字が子房であり、

私(曹操)にとっての張良は荀彧であるといった意味を例えにした言葉になります。

 

ちなみに何顒は曹操を評価した事でも知られる人物であり、

次のように高く曹操を評価した事でも知られています。

漢家將亡、安天下者必此人也。

漢王朝は今にも滅びようとしている。

天下を安んずることができる人物はこの方であろう。

 

そんな荀彧が曹操に仕えてからというもの、曹操は飛躍的に勢力拡大に成功しています。

 

献帝ら長安より洛陽へと逃れてきた際に、

天子奉戴を勧めた事で献帝を擁立し、これにより大義名分を得る事に成功していますし、

袁紹との激突の際には、弱気になった曹操に対して的確な助言をして励まし、最終的に曹操は勝利を得ています。

 

このように適時に荀彧の優れた助言が曹操を正しい方向に導いていたわけですが、

曹操に繋げた人物に優れた者達が多かった事は外せません。

 

その中の一人として挙げられるのが戯志才です。

荀彧は戯志才を策謀の士として曹操に薦めています。

 

そして曹操は計略に長けた戯志才を非常に気に入り、

非常に重要視していた事が「魏志」郭嘉伝にも残されています。

 

惜しむらくは戯志才が早世してしまったことで、戯志才の具体的な功績は今に伝わっていません。

 

 

もしも戯志才が長生きとは言わないまでも、

後10年だけでも長生きしていれば、曹操政権で大きな功績を残していた可能性が高いと思います。

 

その理由は戯志才の跡を継いだ郭嘉であり、

荀彧が推挙した多くの者地が結果をきちんと残して証明してくれています。

 

何より戯志才の後継者として荀彧が次に薦めた郭嘉が何よりの証明であり、

最初に曹操に紹介したのがその郭嘉ではなく、戯志才であった事が何よりの証明であるように思います。

荀彧伝&荀彧別伝

荀彧が曹操に推薦した人物については、

「魏志」荀彧伝&「魏志」荀彧伝(裴松之注「荀彧別伝」)に記録が残されている次の者達になります。

  • 戯志才(荀彧伝&荀彧別伝)
  • (荀彧伝&荀彧別伝)
  • 荀攸(荀彧伝&荀彧別伝)
  • 鍾繇(荀彧伝&荀彧別伝)
  • 厳象(荀彧伝)
  • 韋康(荀彧伝)
  • 陳羣荀彧別伝)
  • 郗慮(荀彧別伝)
  • 華歆(荀彧別伝)
  • 王朗(荀彧別伝)
  • 荀悦(荀彧別伝)
  • 杜襲(荀彧別伝)
  • 辛毗(荀彧別伝)
  • 趙儼(荀彧別伝)
  • 杜畿(荀彧別伝)

ただ実際は記録が今に伝わっていないだけであり、
更に多くの優れた者達を曹操に繋げていたと考えるのが自然でしょう。

 

ただ裴松之が注釈を加えている荀彧別伝が絶対に正しいのかというと、

そうではない点も混じっている可能性は勿論ありますが、

荀彧別伝として今に伝えられている事は、参考資料として有難い事は間違いありません。

 

「魏志」趙儼伝→趙儼自ら曹操に帰順した。
「魏志」荀彧伝(裴松之注「荀彧別伝」)→趙儼は荀彧によって招かれた。

 

このように趙儼が曹操幕下に加わった経緯が食い違っていますが、

どちらかの記載が間違っていると単純に判断するのではなく、

その時々で橋渡しをしたのがあくまで荀彧であり、曹操幕下に加わるきっかけを作ったと考える方が自然でしょう。

 

趙儼の場合は曹操に仕えようと判断していた際に、

最終的に趙儼と曹操の橋渡しをして繋げたと人物が荀彧であったという感じでの解釈ですね。

郭嘉 -戯志才の後継者-

曹操が戯志才を重要視していた事は上でも述べたとおりですが、

戯志才が早世してしまったことで、曹操は次のように荀彧に書簡を送って尋ねたといいます。

自志才亡後、莫可與計事者。

戯志才が亡くなってしまったことにより、

共に計略を練れる人物がいなくなってしまった。

 

汝潁固多奇士、誰可以繼之。

汝南・潁川の地には優れた人物も多いと聞くが、誰か任せられる人物はいないだろうか?

 

これによって荀彧は郭嘉を曹操に推薦し、

実際に曹操と郭嘉が互いに評価した逸話も「魏志」郭嘉伝に続けて残されています。

太祖曰「使孤成大業者、必此人也。」

曹操は「私の大業を成就させてくれるのはこの人であろう」と評価した。

 

嘉出、亦喜曰「真吾主也。」

郭嘉は退出すると、「真の私の主君である」と喜んだ。

 

表為司空軍祭酒。

(曹操は)上表して(郭嘉を)司空軍祭酒とした。

 

他にも曹操が次のように郭嘉を評価した逸話も残されています。

嘉深通有算略、達於事情。

郭嘉は深く計略に通じており、物事の真実を掴んでいた。

 

太祖曰「唯奉孝為能知孤意。」

曹操は「郭嘉のみが私の意図をよく分かっていた」と語った。

 

結果的に郭嘉も早世してしまった人物ではありますが、

その中でも多くの功績を残している事からも郭嘉が優れた人物であったことは今に伝わっています。

 

衰退する袁紹の息子である袁煕・袁尚に力を貸した烏桓族(蹋頓)討伐遠征の際に、

郭嘉が曹操に語った兵貴神速(兵は神速を貴びます)という言葉は有名で、

曹操は郭嘉の言葉を採用して見事に蹋頓を討ち取っています。

 

この点を考えると、後世に名を残せるかどうかというのは紙一重だと思います。

 

高い才能を持っていたとしても歯車が一つ噛み合わないだけで、

無名のまま今に伝わらなかった人物が星の如くいるのが実情であろうと推察します。

 

 

最後に赤壁で敗れた曹操が郭嘉について語った言葉が「魏志」郭嘉伝にあります

郭奉孝在、不使孤至此。

もしも郭嘉が生きていれば、このような負け方はしなかったであろう。

 

もしも郭嘉だけでなく、戯志才までもが長く生きた時間軸があったのならば、

曹操は一気に中華統一まで駆け抜けていたかもしれませんね。

兵は神速を貴ぶ