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臧覇(ぞうは、字:宣高)

臧覇は徐州琅邪郡華県の出身で、後漢末から三国時代にかけて活躍した武将です。
『三国志演義』では呂布配下の「八健将」の一人として知られておりますが、
正史における臧覇は単なる一将軍ではありませんでした。
彼は徐州・青州一帯に独自の勢力を築き上げた地方豪族の指導者であり、
後に曹操から絶大な信頼を寄せられた名将でもありました。
若い頃の彼を語る上で欠かせないのが、父・臧戒を救出した逸話です。
父の臧戒は郡の獄掾を務めていましたが、
太守の不正に反対したことで罪を着せられ、護送されることになりました。
| 獄掾は、現在でいう所の「刑務官」みたいな役職ですが、
他にも獄史・獄卒などがありました。 |
この知らせを聞いた十八歳の臧覇は、食客たちを率いて護送隊を襲撃します。
多数の役人を相手に奮戦し、見事に父を救い出しました。
この出来事によって、臧覇の勇敢さと義理堅さは広く知られるようになったのです。
徐州に独自の勢力を築く
その後、臧覇は徐州牧であった陶謙のもとで黄巾残党討伐に参加し、
功績によって騎都尉に任じられました。
その後、後漢末の混乱の中で、臧覇は孫観・呉敦・尹礼・昌豨ら有力者をまとめ上げ、
琅邪郡を中心に独自の勢力を形成していきます。
この頃には、すでに一地方軍閥の主としての地位を確立していたのでしょう。
興平年間(194年~195年)、
臧覇は琅邪方面で勢力を拡大し、莒城を手中に収めました。
これに対して徐州を支配していた呂布は警戒を強め、討伐軍を派遣します。
「魏志」呂布伝(裴松之注「英雄記)によれば、
高順は「戦わずして従わせるのが上策です」と進言しましたが、呂布は聞き入れませんでした。
しかし結果として、呂布は臧覇を屈服させることができず、
最終的には和解することになります。
この逸話からも、臧覇が単なる地方豪族ではなく、
呂布でさえ軽視できない実力者であったことがうかがえます。
曹操への帰順
建安3年(198年)、下邳の戦いで呂布が滅亡すると、臧覇は曹操に帰順しました。
ここで注意したいのは、正史において臧覇は呂布直属の臣下ではなかったという点です。
演義では呂布配下として描かれておりますが、実際には独立勢力の長として曹操に臣従しています。
曹操は臧覇の才能を高く評価し、琅邪国相に任命します。
さらに孫観・呉敦・尹礼らも臧覇に従って帰順したため、
曹操は徐州東部の支配を安定させることに成功しました。
官渡の戦いを陰で支えた功臣

建安5年(200年)、曹操と袁紹による官渡の戦いが始まります。
この時、臧覇は青州方面で袁紹軍を牽制し続けました。
斉郡・北海郡・東萊郡などへの軍事行動によって、袁紹軍は東方へ兵力を割かざるを得なくなります。
そのため袁紹は全力で官渡へ援軍を送ることができませんでした。
後に曹操は、次のように語っています。
| 西には鍾繇がおり、東には臧覇がいた。
だから私は安心して袁紹と戦うことができたのだ。 |
袁紹滅亡後も、臧覇は徐州・青州方面の軍事を任され続けました。
官渡の戦いを陰から支えた功臣であった臧覇は、
その後も曹操・曹丕・曹叡の三代にわたり重用され、魏の東方防衛を担う重鎮として活躍しました。
魏が建国されると鎮東将軍に昇進し、開陽侯に封じられます。
さらに曹丕の時代には執金吾となり、魏朝の重臣として遇されました。
特に東方の対呉戦線では重要な役割を担い続け、
その存在は魏の安全保障を支える柱の一つとなっていました。
軍中での人望も厚く、長年にわたり多くの将兵から支持を集めていたと伝えられています。
孫権との攻防
建安14年(209年)、曹操は大軍を率いて孫権への遠征を開始しました。
この遠征において臧覇は、張遼・于禁・張郃らと共に淮南方面で活動し、反乱を起こしたが陳蘭・梅成の討伐に従事します。
孫権は陳蘭らを救援しようと試みましたが、
臧覇は素早く行動して皖城方面を押さえ、その動きを封じました。
さらに韓当率いる呉軍を逢龍と夾石で撃破し、孫権軍の進軍を阻止します。
孫権はなおも大軍を船団に乗せて救援を試みましたが、
臧覇が舒県周辺を固めていたため前進できず、やむなく退却を選択しました。
臧覇はその退路を逃さず追撃し、前後から攻撃を加えて大きな損害を与えます。
結果として陳蘭は孤立し、張遼によって討ち取られました。
この一連の戦いにおいて、臧覇は前線指揮官として優れた判断力と機動力を示しております。
濡須口で見せた冷静な判断
建安22年(217年)、曹操軍と孫権軍は濡須口で再び激突しました。
この戦いで臧覇は張遼と共に先鋒を務め、呉軍の工作部隊を撃退します。
しかし戦況は決して楽観できるものではありませんでした。
豪雨によって水位が上昇し、呉軍の船団が目前まで迫ると、多くの将兵は不安を募らせます。
張遼でさえ撤退を考える状況でした。
ところが臧覇だけは冷静でした。
「丞相が我らを見捨てるはずがありません。
軽々しく動くべきではなく、命令を待つべきです。」
と主張したのです。
果たして翌日、曹操から正式な撤退命令が届きました。
張遼がこの件を報告すると、曹操は臧覇の判断を高く評価し、
彼を揚威将軍に昇進させ、節を与えて独立した軍事権限を認めました。
戦場における臧覇の冷静さと統率力がうかがえる逸話です。
魏建国とともに迎えた絶頂期

建安25年(220年)、曹操が世を去ると、天下の情勢は大きく動き始めます。
同年、曹丕が魏王を継承すると、臧覇は鎮東将軍へ昇進し、武安郷侯に封ぜられました。
さらに都督青州諸軍事に任命され、青州一帯の軍事を一任されます。
当時の魏で広大な方面軍を任されていた人物は極めて限られていました。
曹休、夏侯尚、曹真といった曹氏・夏侯氏の一族に並び、臧覇もまた独立した方面軍司令官として扱われていたのです。
これは異例ともいえる厚遇でした。
魏建国の際に提出された『魏公卿上尊号奏』においても、
臧覇の名は張遼・張郃・徐晃ら著名な将軍たちより上位に記されております。
朝廷が彼をどれほど重く見ていたかが分かるでしょう。
洞浦の戦い
黄初3年(222年)、魏と呉の全面戦争(三方面の戦い)が勃発します。
- 濡須口の戦い(曹仁など)
- 洞口の戦い(曹休・張遼・臧覇など)
- 江陵の戦い(曹真・夏侯尚・張郃・徐晃など)
洞浦方面では曹休・張遼・臧覇らが出陣し、呂範率いる呉軍と対峙しました。
魏軍はこの戦いで優勢に立ち、呂範軍に大きな打撃を与えます。
さらに臧覇は快速船五百艘と精兵一万を率いて徐陵方面を急襲し、呉軍を撃破しました。
しかし深追いした結果、全琮・徐盛らの反撃を受けて敗北を喫しています。
生涯を通じて数多くの勝利を収めた臧覇ですが、この遠征は数少ない失敗例として知られております。
中央政界へ
一方で、長年にわたり東方で大軍を率いてきた臧覇は、あまりにも大きな軍事力を持つようになっていました。
かつて青州兵が無断離脱した事件もあり、曹丕は臧覇の影響力を警戒していたといわれます。
そのため臧覇は中央へ召還され、兵権を返上することとなりました。
しかしこれは左遷ではありません。
臧覇は執金吾に任じられ、さらに特進の位を授けられました。
軍事指揮官としてだけでなく、魏朝の重臣として遇されたのであります。
晩年と栄誉
曹叡の時代になると、さらに食邑五百戸が加増され、合計三千五百戸となりました。
その後まもなく死去し、「威侯」の諡号を贈られています。
死後もその功績は高く評価され、
正始4年(243年)には、曹操の廟庭に祭られる二十人の功臣の一人に選ばれました。
これは魏王朝に対する功績が特に顕著であった者だけに与えられる栄誉でした。
臧覇は張遼のような華々しい名将として語られることは少なく、
郭嘉のような軍略家としても知られておりません。
しかし、後漢末の混乱期に独立勢力を築き上げ、
そのまま曹操の信頼を勝ち取り、魏の東方防衛を一手に担った人物は極めて稀です。
若き日に父を救った義侠の少年は、やがて一国を支える方面軍司令官へと成長しました。
その生涯は、武勇だけでなく忠誠と統率力によって乱世を生き抜いた、一人の豪傑の物語であったと言えるでしょう。
そんな臧覇を、陳寿は李通・文聘・呂虔らと並べ、
「州郡を守り、威厳と恩恵をもって人々を治めた人物」と高く評価しています。

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