田豫(でんよ)の劉備時代

田豫(でんよ)が登場するのは、

劉備が公孫瓚の元に身を寄せていた時期です。

 

その頃の田豫はまだまだ子供でしたが、

劉備と接する機会があり、非常に高い評価を受けています。

 

そして子供ながら劉備に従って、徐州へついていきます。

しかし母が年老いていた事が気がかりで、劉備の元を去る事になります。

 

別れ際に、劉備は田豫に対して、

「君と一緒に大事を成せないのは非常に残念だ」

と伝えたそうです。

公孫瓚時代

幽州に戻った田豫は、

公孫瓚に仕える事になります。

 

しかし、公孫瓚と袁紹の関係が非常に悪化すると、

袁紹に寝返っていた王門(おうもん)が、1万の兵を率いて攻めてきます。

 

これに対応したのが田豫で、

裏切った王門に対して、持ち前の弁舌で王門を諭すと、

王門は戦わずして退却します。

 

 

そしてこの時期に、劉虞と公孫瓚の争いが起こり、

劉虞は討ち取られてしまいます。

 

劉虞に仕えていた鮮于輔(せんうほ)は、

その敗残兵や劉虞を慕っていた鳥丸と協力して、

公孫瓚家臣の漁陽太守鄒丹(すうたん)を襲い、城を奪います。

 

またそれ以降も何度も公孫瓚を破り、

その後袁紹と協力して、公孫瓚を死に追いやっています。

 

公孫瓚が自害すると、

鮮于輔と田豫は昔からの知り合いだった為に、彼の元に身を寄せます。

鮮于輔と田豫

袁紹が公孫瓚を滅ぼすと、

袁紹が華北一帯に勢力を伸ばし始めます。

 

鮮于輔は、今後どうしたものか田豫に相談すると、

近隣の一大勢力となった袁紹ではなく、

勢力を次第に拡大していた曹操に味方するのが良いと進言します。

 

鮮于輔は、田豫を信頼していたので、

この言葉を聞き入れ、曹操に仕える事にしています。

 

この助言のお陰で、曹操は鮮于輔を歓迎し、

鮮于輔を「建忠将軍」に任命し、幽州6郡を統治させています。

 

また曹操に従う事を説いた田豫も、

曹操からその才能を認められ、県令や弋陽太守に任命されています。

曹操時代(鳥丸討伐)

曹操が鳥丸討伐に乗り出すと、

田豫は、曹操の息子である曹彰の指揮下に入ります。

 

その曹彰が、

鳥丸の伏兵によって窮地に追い込まれると、

 

田豫が曹彰に対抗策を伝授し、

曹彰はその指示によって大勝しています。

 

これによって、

幽州の代郡を管理下に治める事に成功します。

南陽の反乱を収める

南陽太守を治めていたのは、

東里袞(とうりこん)という人物でした。

 

彼は曹操から南陽を任されますが、

軍役が重く、非常に過酷な状態でした。

 

そんな東里袞に反発して、

侯音(こうおん)が3000人を率いて、反乱を起こします。

 

これによって南陽は混乱していましたが、

田豫が南陽太守に任命されると、この地を落ち着かせています。

曹丕時代

曹操がこの世を去り、曹丕が跡を継ぎますが、

北方民族(鮮卑や匈奴や鳥丸)が国境に度々侵攻してきました。

 

その為、田豫を北方民族の対応に当たらせますが、

彼らが協力しないようにした策略を巡らせ、

鮮卑内の部族同士であったり、匈奴内の部族同士を争わせたりします。

 

その際に、今回はこの部族を味方したりと、

臨機応変に対応していきます。

 

また鳥丸の骨進(こつしん)が抵抗を続けていた為、

田豫自ら出向くと、骨進は降伏しています。

 

しかしこれまでの骨進の態度を許さず、

容赦なく斬り捨てています。

 

降伏した骨進を容赦なく斬り殺した田豫の威光は、

この地方一帯に響き渡る事になります。

 

他にも幽州や冀州の山賊を討ち滅ぼしたりと、

結果を出し続けていきます。

 

そしてその任務も終わりをつげ、

汝南太守を任されます。

曹叡時代

曹丕が崩御すると、曹叡の時代へ移っていきますが、

この時代に遼東の公孫淵が魏から完全に独立し、「燕」を建国します。

 

この時汝南太守のまま、青州の軍権を特別に任され、

公孫淵討伐の命令を受けます。

 

しかし呉が公孫淵と同盟を結ぶと、

曹叡は公孫淵討伐をやめさせています。

 

撤退する際もきちんと対応策を練っていた為、

相手に損害を与え、こちらは無傷に近い状態で無事に退却しています。

合肥新城の戦い

孫権が合肥新城に10万の大軍を率いて攻め寄せると、

満寵(まんちょう)は、急ぎ救援に向かおうとします。

 

しかしこの時、田豫が満寵に進言します。

「まずは孫権に城を攻めさせ、相手が披露するのを待つのが得策。

そうすれば、自然と孫権は退却するでしょう」と。

 

この進言の通り、城を攻撃した後、

孫権軍は撤退しています。

 

その後の田豫は、

振威将軍に任命され、并州刺史も兼任しています。

 

田豫が并州刺史を任されると、

過去の威光からも北方民族の侵攻は収まり、民衆からも慕われます。

晩年の田豫

田豫も歳を取り、中央に呼び戻されて、

衛尉に任命されますが、歳を取った事を理由に辞退を願い出ています。

 

しかし、司馬懿は田豫の力を認めており、

「まだ退くには早すぎる」と思いとどまらせようとしますが、

田豫は「もう70歳を越えているのに、未だに官位を頂いていること自体が罪深い」と返し、

重病だと称して、前線から退いています。

 

その後、完全に退いてからの田豫は、

質素倹約に努め、周りからの援助も断り続けたといいます。

 

 

常日頃から戦利品は将兵に分け与え、

個人的に頂いた物があれば、全て魏へ献上していた為、

田豫の家族は常に生活に苦しんだそうです。

 

しかし田豫のこれまでの功績は誰もが知るところであり、

慎み深い態度の一つを取っても評価され、

 

田豫が82歳で天寿を全うした後に

後残された遺族に対して、生活に困らない程度のお金と食糧の提供がされています。

 

 

演義ではほとんど登場しない田豫ですが、

黄巾の乱から曹芳の時代まで、

時代の流れを長く見つめてきた数少ない人物の一人です。

 

彼の眼には、この激動する時代が、

どのように見えていたのでしょうね。