郭氏は曹丕から寵愛を受けた女性で、
家が没落していた為、召使いをするまでに落ちぶれており、身分の低い女性でした。
それが曹丕の目に止まり、甄氏から郭氏に寵愛が移っていき、
最終的に皇后まで昇りつめています。
曹丕の跡を継いだ曹叡も
父と同じく別の郭氏(郭皇后/明元皇后)を寵愛していたので、
違う女性であることが分かるように、郭氏(文徳皇后)と付け加えています。
この時の女性の名前はきちんと伝わってない事が大半で、
少しややこしいですよね。「なになに氏」みたいな人ばかりですし。
目次
郭氏(文徳皇后/かくし)
後に曹丕の妻となる郭氏は、
後漢の南郡太守を務めた郭永の子として生を受けます。
また郭氏が生まれた時、
「この子は私の中での女王だ!」
と郭永は親馬鹿ぶりを披露し、
郭氏の字を「女王」と名付けています。
男性でも字が伝わらない人物もいたりしますし、
女性といえばほとんどの人が名前(姓名の名)ですらきちんと残ってない人が多いのが実情で、
郭氏の字が今でも伝わっているんですよね。
そういった意味では希有な存在です。
まぁ女王なんて名前だから皇后や夫人みたいにつけられた名前のように見えますけど、
きちんとした「字」っていうのも半端ないですけどね。
ただ一方で「名」が残っていないことから、
あくまでも女王は「字」ではなく、
「あだ名」であるという説もあったりするのも事実ですが・・・
基本的に「字」は本当に親しい人以外の者が呼ぶと、
大変に失礼にあたる呼び名でしたし、
普段この名前で呼ぶのは、
両親とか限られている者だけでした。
馬超が劉備の事を「玄徳!」と呼んで、
関羽と張飛が激怒して馬超を殺そうとした
って話もあるぐらいですし・・・
そんな郭氏ですが、幼い頃から利発な子で、
両親から寵愛を受けて育ちます。
幸せ満帆の中で育っていた郭氏でしたが、その幸せは長くは続きませんでした。
両親が亡くなってしまった事で家が没落してしまい、
郭氏は生活する為に召使いをするまでになったといいます。
曹丕に見初められた郭氏
召使いの生活をしていた郭氏ですが、
三十歳の時に転機を迎えました。
召使いをしていた郭氏は、偶然にも曹操の目に止まったことで、
曹丕・甄氏の身の周りを世話を任されることになるのでした。
まぁ一言で言うと、侍女の役目ということですね。
ただ曹操の目に止まったのに、
曹操が手を出さなかったのは少し不思議な気もしますが・・・
まぁそこはこれ以上追及せずに話を進めると、
次女であった郭氏は曹丕からの寵愛を受けた事で、
曹丕の側室に昇格します。
まさに玉の輿夫人と言ってもいいほどですね。
その後、絶世の美女であった甄氏を差し置いて、
曹丕の寵愛を受けるわけなので、よほど魅力的な女性だったと思われます。
何故なら曹丕が初めて郭氏に出会ったタイミングは、
既に三十歳になっていたわけですから・・・
ちなみに郭氏に寵愛が移った事が原因として、
甄氏は曹丕に死を命じられたとも言われたりもしています。
また郭氏と曹丕の間には子が生まれなかったこともあり、
甄氏の息子であった曹叡を郭氏が養母として育てたりもしていますね。
その後に曹丕が曹操の跡を継いで魏王になると、
郭氏は郭夫人とになり、
曹丕が皇帝になると、
最終的に皇后まで昇りつめています。
郭夫人の皇后就任&その後
曹丕の寵愛を受けるようになった郭氏が、
皇后への昇格の話が出てきますが、
郭氏の家は既に没落していることもあって、
「低身分であった郭氏を皇后に立てる事は、
はてしていかがなものか?」
と反対する者が続出します。
しかし曹丕は周りからの声は無視して、
郭氏を皇后に立てることに・・・
そのような流れで郭氏(郭夫人)は、
「郭皇后」として皇后になるわけですが、
常々に自分のことを教訓にし、親しい者達には次のように言ったといいます。
「結婚する時は同郷の者同士で、
家柄が釣り合う者同士にすべきである!!」と・・・
これは大きな身分の差がありながら曹丕に嫁ぎ、
大変な苦労をしてきた郭氏だからこそ出てきた言葉でしょうね。
しかし曹丕が早くに亡くなってしまい、
曹叡が跡を継ぐことになるわけですが、
曹叡の養母であった郭皇后には、
「皇太后」の称号が与えられています。
最終的に郭氏は、
曹丕が崩御してからの約9年後(235年)になくなっており、
文徳皇后という諡(贈り名)が与えられています。
甄氏を死に追い込んだ裏ボス
曹丕・甄氏の身の回りを世話する役目を任された郭氏でしたが、
曹丕と甄氏の間に亀裂が入ると、
「曹丕の寵愛を受けたい!」と思ったのでしょう。
そしてここにつけこんだのが郭氏であり、
「甄氏のあることないことを曹丕に吹き込んで、
甄氏は死に追いやった」と言われています。
このことは陳寿の書いた三国志正史にも、
「甄氏が死んだのは郭氏のせいである!」
とはっきりと記載が残っています。
その後の郭氏ですが、
曹丕の寵愛を受け続ける事になります。
しかし郭氏によって唯一の不幸だったのが、
出会った時期が遅かったこともあり、子供を授かれなかった事でした。
その為に曹叡を自分の養子とした形でした。
かつて自分が死に追いやった甄氏の子を・・・
もし男の子を授かっていたならば、曹叡が跡を継ぐこともなかったでしょうね。
「天子は親を慕う」と刻まれた玉璽
曹丕の跡を継ぐことになった曹叡ですが、
実母である甄氏の名誉を回復しようと尽力していました。
そんな折に洛陽で、
「天子は親を慕う」
と書かれた玉璽が見つかります。
この話を聞いた曹叡は、
「私は今現在皇帝であり、
それはつまり天子の身分である!
「だからして私が甄氏(産みの親)を思う心は、
天にも昇るほどのものである!!」と解釈したのでした。
その話を聞いた郭氏は(郭皇后)はというと、
「亡き父親や養母である私の事を、
今以上に思いやるべきだ!」
と解釈するのが普通ではないかと語ったとか・・・
まぁどちらの解釈も間違ってはないかなと思いますが、
郭氏の解釈は本人が言った言葉だから、
少なからず嫌味が混じってる感じは受けますね。
ただ当時の世の中では儒学的な思考が染みついていたこともあり、
親ヘの「孝」の精神は重要視されていました。
それがどういうことかを極端な例で説明すると、
両親から虐待を受けていたとしても、
「孝」を尽くすことが美しいとされていた時代だったということです。
この考えは実母であっても育ての親であってもかわりません。
だからこそ曹叡が、
実母である甄氏を思った気持ちも間違いではありませんし、
郭氏が曹叡の義理の母という事から、
曹叡に望んだ気持ちも決して間違いではありません。
どちらも儒学の思想からは当たり前の感情ではあったのです。
郭氏の逸話
甄氏を死に追いやったことで、
野望の為に他の者を平気で貶めるといったイメージもありますが、
立派な逸話がいくつも残る女性でもあったりします。
郭氏が頂点に昇りつめるまでには、
曹丕の正室であった甄氏が邪魔であったことは間違いなく、
その為に甄氏を貶めて死に追いやったきっかけを与えたことも事実でしょう。
ただもしかするとですが、最終的に頂点に昇りつめたことで、
見える景色が変わったのかもしれませんね。
聡明で皇后の名に恥じない姿
曹丕が戦の為に出かけた際に、
洛陽が長雨にさらされてしまうことがありました。
そのことがきっかけとなり、
楼閣や城壁が崩れてしまいます。
その際に周りの者達は、
郭氏に危険が及ばないように避難を勧めました。
しかし、郭氏は、
「今の私は夫から留守を預かっている身です。
実際楼閣や城壁が崩れたといってもそれほど酷い被害でもないでしょう!!
だから私はここから動くこともしませんし、
あなた達が言うように避難する気はありません!」
といったそうです。
また他には曹丕が誰かを理不尽に処罰しようとした際も、
郭氏が話をきちんと話を聞いてあげることもあったようでして、
自分の口で曹丕にうまく取り計らってあげることも多かったようです。
その為に臣下の者達から、
郭氏に対して信望も厚かったといった逸話も残ってたりします。
卞夫人(べんふじん)に脅された郭氏
ある時に曹丕が曹洪に対して、
「絹を百匹(=二百反)ほど貸してほしい!」
と頼んだことがありました。
曹洪はこの願いを普通に断るのですが、
曹丕は断られた事を長らく根にもつことに・・・
曹洪は曹操の従兄(血の繋がりはない)であり、
生涯曹操を支えた忠臣でした。
そんな曹洪ですが、
曹洪の食客が罪を犯した事がありました。
これをふと耳にした曹丕は、
「ここぞ、恨みを晴らすチャンス!」
と言わんばかりに、
曹洪を連座の罪で処刑しようとします。
この時の曹丕は、曹洪にどれだけの功績があろうと関係なしに、
処刑してしまう気持ちしかなかったのでしょう。
だからこそ誰が曹丕を諫めても、
聞く耳持たずの有様だったわけでして・・・
卞夫人、曹洪を助ける
この時に曹洪の助命へと乗り出したのが、
曹丕の母であった卞夫人でした。
卞夫人は曹丕の寵愛を受けていた郭氏に対して、
「もし曹洪が連座の罪で処刑される事にでもなれば、
私が息子である曹丕にお願いして、
貴方から皇后の位を奪わせますよ!!」
と脅しをかけたのです。
卞夫人からの言葉に、郭皇后はあわてふためきます。
せっかく底辺から頂点まで昇りつめたのに、
「そこから引きずり落としますよ!」
と言われたわけですからね。
郭皇后としては自分の事だけを考えた事でしょう。
夫である曹丕に、
何度も泣きついて曹洪の助命をしたそうです。
その甲斐もあって曹洪は、
なんとか命だけは奪われずに済んだのでした。
この話は卞夫人の聡明さが伺える話で、
さすが曹操の正室だと言わざるをえない女性ですね。
最後に・・・
まぁ良い女性という見方から悪い女性という見方まで
色々な噂のあった郭氏ですが、
両親の死がきっかけとなって、色々と苦労をしながらも、
30歳を超えてチャンスを掴む事に成功したからこそ、
「自分が曹丕の一番になりたい!」
という気持ちが沸いたりしたでしょう。
だからこそ曹丕の正室でもあった甄氏を死に追い込んだりと、
上へ上る為に色々な手段を講じたのだと思います。
ただ甄氏の死に影響を及ぼしはしたものの、
既に甄氏が曹丕からの愛情が薄れていた時でもありましたし、
そこに軽いきっかけを及ぼしたのが郭氏なだけであって、
最終的に死を命じたのは曹丕ですからね。
これまで述べてきたことからも、
甄氏の死へと繋がる黒い部分もあった郭氏ですが、
出過ぎた真似は控えつつ、
曹丕を立派に支えた妻であったことも決して忘れてはいけないと思います。
ただその中で女の戦いが繰り広げられただけの話に過ぎません。