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曹操の三人の正妻

曹操は後漢末から三国時代初期にかけて活躍した英雄であり、多くの妻妾を迎えました。
正史に記録が残るだけでも13の夫人がおり、記録に残るだけでも32人の子女をもうけています。
ただし、中国古代においては妻妾の数が多くても「正室(嫡妻)」は一人だけであり、
それ以外は側室という扱いでした。
曹操の正妻を語る上で特に重要なのが、
- 劉夫人
- 丁夫人
- 卞夫人
の三人になります。
劉夫人 -曹操最初の正妻と考えられる女性-

劉夫人は曹操の初期の妻であり、
- 曹昂(そうこう)
- 曹鑠(そうしゃく)
- 清河長公主(せいかちょうこうしゅ)
を生んだ母として知られています。
しかし彼女についての記録は極めて少なく、
出身・性格・家柄などはほとんど伝わっていませんが、
後に曹操の後継者候補ともなった長男の曹昂が劉夫人の子であったことは確実です。
劉夫人は比較的早く亡くなったとみられ、その後、曹昂らは丁夫人によって養育されました。
丁夫人 -曹昂を育てた養母-

丁夫人には実子がいませんでした。
そのため、劉夫人の死後、曹昂・曹鑠らを我が子同然に育てたと伝えられています。
特に曹昂への愛情は深かったようです。
建安二年(197年)、曹操は宛城の張繡を攻めました。
張繡はいったん降伏しましたが、その後突然反乱を起こします。
この戦いで、曹昂・曹安民(曹操の弟の子)・典韋らが戦死しました。
なお正史では、「曹操が張済の未亡人を側室にしたため張繡が怒った」という記録はありますが、
「美女に溺れたせいで敗北した」とまでは書かれていません。
また、未亡人の名も正史には記されておらず、
「鄒氏」という呼称は後世に広く用いられるようになったものです。
曹昂の死は丁夫人にとって非常に大きな衝撃でした。
「魏志」武宣卞皇后紀(裴松之注『魏略』)によれば、
丁夫人は曹操を見るたびに「あなたは私の子を失わせた」という趣旨の言葉を口にし、悲しみ続けたといいます。
そのため曹操はいったん丁夫人を実家へ帰しました。
後に自ら迎えに赴きましたが、丁夫人は戻ることを拒否し、二人は事実上離別することになりました。
曹操晩年の後悔
曹操は晩年、
「死後に曹昂と会った時、丁夫人のことをどう説明すればよいのだろう」
という趣旨の言葉を残したと伝えられています。
これは曹操が丁夫人との離別を最後まで心残りにしていたことを示す逸話として知られています。
最初の正室は劉夫人か、それとも丁夫人か?
最初の正妻は丁夫人だとされる意見が多いのが実情だったりしますが、
私は単純に考えて、最初の正妻は劉夫人であった可能性が高いと思っています。
(※名家の家の者が正妻となる事が多いため、最初に妻となったからと正妻となるわけではない。)
丁夫人が曹操の二人目の妻として曹操に嫁ぐと、
最初から正妻として置かれたと一般的には言われていますが、
私は少し違う考えを持っていたりしますので、折角なので紹介しておきます。
「魏志」武帝紀(裴松之注「魏書」)には、
曹操の従妹は宋奇なる人物に嫁いでおり、その宋奇が誅された事が描かれており、
この時に曹操も連坐して罪を受けて罷免されたと記録が残っています。
曹操の祖父である曹騰は大宦官でしたし、家柄が重視された当時、
単純に考えて宋奇は霊帝の妻(宋皇后)の外戚であった可能性が高いと思います。
なぜなら光和元年(178年)10月に宋皇后は廃位に追い込まれ、
その罪により三族皆殺しとなっていますが、
宋奇が処刑されたのも曹操の時系列を見る限りでも、三族の一人として誅されたと考えるのが自然でしょう。
また曹操に嫁いだ劉夫人も、宋皇后に関係した一族であった可能性、
もしくは単純に劉姓の女性ですから、皇族に県警する女性だった可能性も考えられます。
しかし宋皇后の事件が起こったことから、
曹操は新たに丁夫人を娶って正妻とした流れなではないかと思っています。
なのでそれまでの曹操の正妻は劉夫人であり、
もっと言ってしまえば、そういう事件があったとしても、
劉夫人が亡くなるまでは正妻であった可能性は十分にあると思います。
これは記録が断片的にしか残されていない為に私の推測が大きく反映されていますが、
私はこれらを一つの根拠として劉夫人を最初の正妻として記載しています。
卞夫人 -側室から正妻、そして皇后となった女性-

卞夫人は、後に魏の皇后となる人物ですが、その出自は決して高いものではなく、
徐州琅邪郡開陽県の出身で、若い頃は「倡家」と呼ばれる芸能に携わる家の女性でした。
宴席などで歌舞を披露する歌妓として生活していたと伝えられています。
二十歳前後の頃に曹操の側室となり、
- 曹丕
- 曹彰
- 曹植
- 曹熊
の四人の男子を生みました。
卞夫人は曹操の寵愛を受けながらも、
贅沢を好まず、常に慎み深い態度を心掛けていた女性として知られています。
「魏志」武宣卞皇后紀(裴松之注「魏書」)には、卞夫人の聡明さを示す次の逸話も残されています。
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ある時、装飾品の中から好きなものを選ぶよう勧められた際、 卞夫人は最も高価な品でも最も安価な品でもなく、中庸のものを選びました。 その理由を問われると、 「高価なものを選べば欲深いと思われ、 安価なものを選べばわざと謙遜していると思われるでしょう。 中ほどのものを選ぶのが最も適切です。」と答えたといいます。 |
丁夫人への配慮
「魏志」武宣卞皇后紀(裴松之注『魏略』)には、
卞夫人が正室となった後も丁夫人を敬い続けたという逸話があります。
かつての立場を理由に見下すことはなく、礼節を守り続けたと伝えられています。
そのため卞夫人は後世でも賢夫人の代表的人物として高く評価されました。
220年、曹丕が魏を建国すると、卞夫人は皇太后となりました。
さらに追号として武宣皇后を贈られています。
230年に死去し、曹操の眠る高陵に合葬されました。
曹操は愛妻家だったのか?
最後に曹操の正妻となった三人の女性を振り返ると、
- 劉夫人は長男曹昂を生んだ最初期の妻
- 丁夫人は曹昂を育てた養母であり、曹昂の死を契機に曹操と離別した妻
- 卞夫人は側室から正室・皇后となり、魏建国の母となった妻
という位置づけになります。
また三人以外にも曹操には多くの側室がいましたので、
現代的な感覚では女性関係が派手に見えるかもしれません。
しかし正史を見る限り、迎えた妻妾やその子供たちを比較的手厚く遇したことも事実です。
特に、
- 秦朗(杜夫人)
- 何晏(尹夫人)
のような連れ子にも厚遇を与えました。
また臨終の際には、
残された夫人たちの生活を心配し、今後の暮らしについて配慮する遺言を残しています。


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