楊修(楊脩/ようしゅう)

楊修は楊彪(ようひょう)の息子として生まれます。

 

楊彪はかつて三公である大尉にも任命された事があり、

楊家は、過去にたくさんの三公を輩出した名家でもありました。

 

そんな名家に生まれた楊修ですが、

知識豊富な人物で、楊修も父と同様に曹操に仕える事になります。

 

 

曹操は当時丞相の役職についていましたが、

たくさんの仕事が山積みになっている状態でした。

 

楊修は山積みになっていた多くの仕事を一生懸命こなしたことで、

曹操からも気に入られる事になります。

 

 

ある時、益州の劉璋の使者として張松が曹操の元を尋ねた際、

張松の見た目が貧相であったという理由で、曹操は張松に冷たく接しました。

 

その後、楊修が張松に会って話してみると、

立派な人物である事が分かり、曹操に再度張松に会って話すように進言しますが、

曹操は考えを改める事もなかったようです。

横山光輝三国志(32巻182P・183P)より画像引用

鶏肋(けいろく)

219年、曹操が夏侯淵らの援軍として漢中へ向かっていますが、

この時、楊修も曹操に従って漢中へ向かっています。

 

しかし、夏侯淵は既に劉備軍の黄忠に討たれた後であり、

劉備も守りを強固にしており、曹操軍は次第に劣勢な立場に追い込まれます。

 

そんな最中、曹操がなんとなく言った「鶏肋(けいろく)」という言葉を聞いて、

楊修はその意味を勝手に解釈します。

 

「鶏肋」ということは「鶏のあばら」ということで、

「捨てるにはどことなくもったいないけど、食べたからと腹が満たされるわけでもない」

と解釈して、曹操の許可も取らずに勝手に撤退する準備を始めます。

 

つまり「漢中は捨てるには惜しい土地だけど、

中央から離れた漢中を奪い返したとしても守り抜く事が難しい。

 

撤退するなら今のタイミングしかない」と楊修は判断したわけです。

楊修の最後

曹操はその後漢中から撤退するわけですが、それからまもなく楊修は処刑されています。

ただ楊修を処刑したはっきりとした理由は伝わっていません。

 

ただ楊修のこれまでやってきたことに対して、

曹操の中で積もり積もったものがあり、

 

それが「鶏肋」という言葉から勝手に撤退準備をしたことで、

曹操の怒りが爆発したものだとも言われています。

楊修が処刑された原因①

ある時、曹操が庭園を訪れた事がありました。

そして曹操は、門の柱に「活」という漢字を書いて出て行きました。

 

これを見ていた周りの者達は、

それがどういう意味なのか分からず楊修に尋ねてみると、

 

「これは闊(ひろい)という意味だから、

「庭園をもっと小さくすることを曹操様は望んでいる」と語ります。

 

 

しばらくして再び庭園を訪れた曹操は、庭園が小さくなっており、

 

自分の考えを読み解いてくれたのは誰かと尋ねると、

周りの者達は「これは楊修殿に教えて頂きました」と答えます。

 

これを聞いた曹操は表向き楊修を褒め称えるものの、

心の中を見透かされたようで嫌な気持ちになったそうです。

楊修が処刑された原因②

ある時曹操が、後継者を決めようと考えていました。

 

そして曹丕と曹植を曹操直々に呼び出したのですが、

門番には二人が尋ねてきても決して通さないように指示を出していました。

 

 

そうとは知らない曹丕が門番に拒まれると仕方なく帰っていきます。

 

そして曹植はというと、

拒んだ門番を容赦なく斬り捨てて曹操の元へ参上しました。

 

曹植が門を通ってこれた事を不思議に思った曹操が、

「門番に断られなかったのか?」と尋ねます。

 

これに対して曹植は、

「門を通る事を拒否されたので斬り捨てました」と返します。

 

これを聞いて曹操はびっくりしますが、

「父上から参上の命令を受けたからには、何があっても参上しなければいけないと思ったからです」

と返した曹植に、曹操は曹植を褒め称えます。

 

しかしこれが曹植と仲が良かった楊修が吹き込んだものだと知ると、

曹操はなんとも言えない感情に襲われたようです。

楊修が処刑された原因③

楊修は「答教」という問答書を曹植の為に作っていました。

 

これには何が書かれていたかというと、

曹操から問われそうなことに対する答え方が前もって記載されていたのです。

 

 

そして曹丕はいつも曹操の問いに答えられない中、

曹植は曹操が気に入るような回答を即座にできていました。

 

さすがにこれには曹操も不信感を抱きいて調べた結果、

これも楊修の仕業という事が分かります。

 

後継者問題にまでズケズケと入ってくる楊修に対して、

曹操はこのままにしておいては、まずいと判断したそうです。

才に溺れてしまったが故に・・・

 

「才は才に滅ぶ」「才ある者は才に溺れる」ということわざがありますが、

楊修の死はまさにその典型的な感じだったわけですね。

 

 

「能ある鷹は爪を隠す」ということわざがありますが、

 

楊修がこのように自分の才能をひけらかすことをしなかったならば、

曹操からもっと重用された可能性があると同時に、このような死に方をしなくて済んだでしょうね。

三国志演義での楊修

三国志演義でも書かれている内容は大体同じです。

 

ただ三国志演義では、「鶏肋」を勝手に解釈して撤退の準備をしていた時に、

曹操の怒りを買ってその場で処刑されています。

 

 

その後、撤退する意思がなかった事を証明する為に劉備軍に勝負を挑みますが、

曹操軍は惨敗を喫してしまいます。

 

曹操も前歯を弓で折られながらもなんとか撤退する事に成功しましたが、

「楊修が言っていたように退却していればよかった」とひどく後悔したそうです。

横山光輝三国志(40巻84P)より画像引用

禰衡の評価

禰衡(でいこう)という色んな意味での変人がいますが、

「許昌には孔融と楊修の二人しか優秀といえる人物がいない」と評価したと記録に残っています。

 

禰衡は変人ではあったものの、才能豊かだった人物であるのは確かでしたが、

とりあえず自分の才能をひけらかし、空気の読めない人物でした。

 

最終的に曹操から追い出される形で劉表の元へ行っているのですが、

失礼な態度が多かったので、劉表によって殺されています。

 

 

孔融も楊修も曹操に処刑されていますし、

ある意味自分の才能をひけらかす己に似たような人物だけを評価したのかもしれませんね。

 

何故なら曹操・荀彧・陳羣といった人物をけなした上で、

孔融と楊修のみを褒め称えたのですから・・・