252年に呉の孫権が亡くなると、
それにつけ込んで諸葛誕(しょかつたん)・胡遵(こじゅん)が呉へ攻め込みました。
この時、魏の侵攻に対応したのが諸葛瑾の子である諸葛恪でした。
諸葛恪は丁奉・朱異を指揮して、諸葛誕・胡遵を見事に打ち破ります。
そして勝利を掴んだ諸葛恪は、逆に魏の合肥へ攻め込んだのです。
これにより第五次合肥の戦いが起こったわけですが、
この時に合肥の守備を任されていたのが張特(ちょうとく)でした。
第五次合肥の戦い(張特VS諸葛恪)
張特は曹叡の代になって魏に仕えた人物です。
そんな張特ですが、諸葛誕から信頼されていませんでした。
しかし諸葛恪に敗れ、毌丘倹を鎮東将軍に任命した上で、
諸葛誕の代わりとして呉への備えとして任されるわけですけど、
毌丘倹は諸葛誕と違って張特を評価し、合肥の守備を任せることにしました。
そこに諸葛恪率いる呉の大軍が押し寄せて、合肥新城を包囲したわけですね。
張特含め守兵は3000人程度しかおらず、
諸葛恪の前に苦戦を強いられながらも3か月ほど耐え抜きました。
張特の起死回生の為の策略
3か月ほど持ちこたえてきた張特ですが、
呉軍の猛攻の前に東北側の城壁が、もう少しで破られてしまいそうになります。
またこの間に半数近くの兵士が討死しており、
その上疫病まで流行る始末。
これ以上城を守り通せないと判断した張特は、ここで一計を案じます。
魏には100日ルールというものがあり、
100日間城を守り通した上で相手に降伏したとしても、残された妻子が罪に問われる事がないというものでした。
これを張特は利用しようと考え、
「魏には100日ルールがあるので、それまで攻撃をやめて欲しい。
そして100日経ったらきちんと降伏する」という旨を諸葛恪に伝えます。
まさに「緩兵(かんぺい)の計」の代表ともいえるような作戦ですね。
城を守り抜いた張特
諸葛恪は張特の言葉を信じ、城への攻撃を中止を決定。
諸葛恪の攻撃が止んだ事を確認した張特は、
急いで東北側の城壁を含め、傷んだ場所の修理をしてしまったのです。
そして戦える準備が整うと、張特は諸葛恪ら呉軍に向かって、
「我々はまだまだ戦える! さっさと攻めてこい!!」と罵倒。
これを聞いた諸葛恪は怒りが収まらず、
城に再度攻めかかりますが、城を落とすことができませんでした。
諸葛恪は城を落とせない中、
更に司馬孚(しばふ)が合肥新城へ援軍として到着します。
その上、呉軍の中で疫病が流行った事が決め手となり、
諸葛恪は合肥から撤退を余儀なくされています。
この戦いに勝利したことにより、張特は雑号将軍に任命されています。
また同時に列侯に封じられ、安豊太守を任されました。
諸葛恪に関する余談
諸葛誕・胡遵を打ち破った時の諸葛恪は全盛期で、
この勝利によって魏は数万人の兵士が犠牲になり、多大な物資を魏から手に入れたことで、
諸葛恪は、国内の軍事全般の指揮を任されることになります。
またこの時諸葛恪は丞相に任命されたようです。
しかしその翌年にあたる253年に、
魏へ攻め込んで敗北を喫してしまったこの戦いで、諸葛恪の人望は地に落ちてしまいます。
そして今回の敗戦を口実にして、
孫峻(そんしゅん)のクーデターによって殺害されてしまいました。
また被害は諸葛恪だけに納まらず、諸葛恪の一族にまで及びます。
まさにこの第5次合肥の戦いは、諸葛恪の命運を分けた戦いでもあったわけです。
別の言い方をすれば、諸葛恪は張特に殺されたともいえるかもしれませんね。