東里袞の副将、応余(おうよ)

 

応余は、仁義を重んじる人物であり、

南陽太守であった東里袞(とうりこん)の功曹を任されており、

 

同時に東里袞の副将でもありました。

 

 

東里袞は曹仁が守る樊城へ支援を続けていましたが、

農民たちは、軍役の過酷さから不満を募らせていきます。

 

この農民たちを救うべく、

南陽郡の宛城を守っていた侯音が魏に対して反乱を起こしました。

 

 

宛城はかつて張繍が守っていた城で、

賈詡の策略もあって曹操は落とすことができなかった城でもあります。

 

その宛城を侯音は占領してしまいます。

 

そしてそれだけでなく、南陽郡の多くの県が侯音に呼応したと思われます。

この時、山賊らも侯音に力を貸したと言われています。

 

 

はっきりした記録がないので分かりませんが、

 

おそらく東里袞と応余らは、

侯音が反乱を起こした時は南陽郡の新野城にいたんじゃないかと想像しています。

 

新野城は前に劉備いた城として有名ですよね。

とりあえず、東里袞が新野にいたという前提で話を進めます。

応余の壮絶な最後

侯音は宛城を占領すると、周りの県を味方につけ、

南陽太守であった東里袞がいた新野に兵を向けますが、

 

侯音の反乱によって新野でも大きな混乱が起こっていました。

それを見た東里袞・応余らは逃げ出します。

 

しかし残念ながら二人は、侯音の追手に追い付かれてしまうのです。

 

 

東里袞らに追い付いた侯音の追手は、弓矢を射まくります。

そして東里袞もこれまでかと思った時に、東里袞の前に立ちふさがったのが応余でした。

 

応余は身を挺して東里袞を守り、7本の矢を体に受けたと言います。

そして傷つきながら応余は叫びました。

 

「侯音はとちくるって反乱を起こしているが、こちらはもうすぐ援軍が到着する。

そうなると侯音をはじめ、お前たちは皆殺しにされるだろう。

 

だがお前たちは侯音にそそのかされただけで、性根が腐ってない事は知っている。

今こそ侯音なんかに手を貸さず、正しい道を選択すべきだ!

 

今私自身は、太守を守って傷を負っているが、

太守が助かるのなら、私がここで死んでも悔いは全くない!!」

 

 

応余はそう言い残すと、天を仰いで大粒の涙を流し、

この時、流した涙が血に混ざって地面に流れ落ちたそうです。

 

応余の壮絶な最後を見た追手は、東里袞をそれ以上に追う事はなかったそうです。

そして東里袞は無事に逃げ延びる事に成功。

 

そして追手が引き上げるのを見届けると、そのまま息を引き取ったといいます。

東里袞が宗子卿に助けられた別話

応余の活躍もあって、東里袞は無事に逃げおおせたと言いましたが、

この時別の記録もあるんですよね。

 

そのもう一つの話は、

東里袞は侯音の追手に最終的に捕まってしまうというものです。

 

 

その時に宗子卿(そうしけい)が侯音に対して、

「民衆達を救う為に立ち上がったのは立派なことではあるけど、

郡太守であった東里袞を人質に立てこもるのは筋違いである」と言うと、

 

この宗子卿の言葉を聞いて、侯音は東里袞を解放。

 

 

そして宗子卿自身も城を抜け出して、

解放された東里袞と合流して、協力して侯音が守る宛城を包囲し、

 

曹仁の援軍もあって、侯音を討ち取っています。

 

この場合、応余は侯音の追手に普通に殺され、

東里袞も捕まってしまったという事になるんでしょうね。

応余と宗子卿のどちらの話が本当なのか?

 

どちらの話も三国志正史と「曹瞞伝(そうまんでん)」に記載されている事なので、

矛盾こそあるけれども、どちらも一応ありうると思います。

 

ちなみに呉の視点で書かれた「曹瞞伝」に宗子卿の話は載っています。

それに対して正史の方に、応余の話が載っています。

 

その点を考慮すると、

東里袞が捕らえられた後に宗子卿に助けられた話よりも、

応余が東里袞を守り抜いて息絶えた話の方が正確な話のような気はします。

 

 

なぜなら正史の方には侯音の討伐に成功した後、

曹操は、応余の為に祭祀を行ったと書いてあります。

 

それと同時に、曹操は応余の死を悲しみ、

応余の忠孝に少しでも報いるべく、応余の故郷で褒め称えた上で、

残された家族に対して食糧一千斛あげたそうです。

 

「斛」という単位じゃ分かりにくいので、分かりやすく「合」の単位に代えると、

一千斛=百万合ということになるので、相当な量ですね。

※三国時代の量の単位(一斛=十斗、一斗=十升、一升=十合)

 

 

また後に第四代魏皇帝になる曹髦によって、

258年に改めて応余の生き様に対して称賛されました。

 

そして、「応余の孫であった応倫(おうりん)を役人に取り立てるように司徒に命じた」

と応余に対しての記録が残っています。

 

 

それらの点を総合的に考えると、

「曹瞞伝」に記載されている宗子卿の話よりも、

 

正史の方に記載されている応余の話の方がスムーズに話が繋がるとの理由から、

応余が命を捨てて東里袞を守った話を個人的には信じたいところです。

 

その場合、侯音・関羽・孫権に立て続けに、

東里袞が捕らわれたわけではなくなってきちゃいますけどね。

立て続けに三度の捕虜経験を持つ東里袞(とうりこん)