三国時代の魏には、偽善が横行する世間を嫌って、

知識人達が酒を飲みながら老荘思想を題材とした議論(清談)を交わしていた者達がおり、

 

そういう人達の中で有名だったのが「竹林の七賢ちくりんのしちけん」と呼ばれていた人達でした。

 

 

「竹林の七賢」とは、阮籍こげんせきを筆頭に以下の7人のことになります。

  • 阮籍こげんせき
  • 嵆康けいこう
  • 劉伶りゅうれい
  • 山濤さんとう
  • 阮咸げんかん
  • 王戎おうじゅう
  • 向秀しょうしゅう

 

三国志の時代のこのような行為は、命の危険を伴う行為でした。

しかし当時、世を憂いて彼らのような清談がよく行われていたそうです。

 

そして今回は「竹林の七賢」の中でも筆頭に挙げられる事も多く、

「白眼視」という名称でもお馴染みの阮籍についてみていこうと思います。

阮籍(げんせき)

「竹林の七賢」のことは、「世説新語」なるものに記載が残っており、

阮籍についてのことも記録が残っています。

 

阮籍は、210年に誕生していますが、

幼い頃がどんな子だったかはあまり分かりません。

 

阮籍が成長すると、蒋済から誘いを受けますが、

やる気がなかった阮籍は断ります。

 

しかし断られた事に対して蒋済が激怒したため、仕方なく仕官してあげたそうです。

ただそれからしばらくし、病気を理由に辞職。

 

 

次に阮籍が誘われたのは、

一時は司馬懿を貶めて、飛ぶ鳥も落とす勢いだった曹爽でしたが、

やる気ない阮籍は「まだ病気だから無理だ」と普通に断ります。

 

司馬懿が曹爽の専横を許せずにクーデターを起こすと、

今度は司馬懿から誘いを受けた際は、断らなかったようですね。

 

 

この時、阮籍は従事中郎に任命されていますが、

 

あまりやる気はなかったようで、

最低限怒られない程度の仕事しかこなしませんでした。

 

そんな阮籍ですが、役所に酒が沢山保管されている事を知ると、

自分から願い出て、役所の仕事につかせてもらっています。

 

そして同じく「竹林の七賢」に数えられていた劉伶を呼んで、

勝手に保管されている酒を飲んでいたようですね。

 

 

まぁ世間一般ではこれを横領と言うんでしょうけど、

ばれなければお咎めなしというところでしょう。

 

実際、仕事中も常に酔っぱらっていたそうですから、

ばれてはいたのでしょうけど・・・。

母親の葬儀

阮籍の母親が亡くなった時の事ですが、

儒教的な考えからも喪中は肉や酒を飲まないのが通説でしたが、

 

阮籍は「そんな通説なんて知らん」と言わんばかりに、

いつも通りに酒を飲んで豚の肉を食って、「じゃあな!」と泣きながら母親を見送ったそうです。

 

 

この阮籍の態度を見るに見かねて、

何曾かそうが司馬昭に阮籍を左遷するように進言したようですが、

 

この頃の阮籍はやせ衰えていたようで、

司馬昭は「左遷させるのもかわいそうだろう」ということで目をつぶっています。

 

単純に酒浸りの生活で体調崩していただけの気もしますけども・・・。

 

ここで出てきた何曾は、司馬炎が魏を滅ぼして晋を建国した時に、

晋の丞相を任された人物です。

 

 

ちなみにですけど、母親が死んだ時、

阮籍は好きな囲碁を打っていたそうですが、

 

母親が死んでも囲碁をやめようとしなかったという話も残っています。

鍾会をあしらう

知恵者であった鍾会が、

阮籍を嫌って処刑する口実を作ろうといくつか質問をしたようですが、

 

阮籍は意味の分からない言葉ばかり言ったので、

鍾会も「こいつ何言ってるのか訳がわからん」ということで、

阮籍からの失言を誘うはずが、それ以前の問題に終わってしまいした。

 

おそらく阮籍も鍾会の魂胆が分かっていたのでしょうね。

 

 

実際鍾会は、阮籍の処刑には失敗していますが、

 

同じく「竹林の七賢」で阮籍とも交流が深かった嵆康は、

阮籍の時のような罠をしかけられて処刑されています。

 

また司馬炎が阮籍の娘を妻に娶りたいと阮籍の元へ使者をだしたところ、

阮籍は二カ月間酒を飲み続け、常に酔っ払い続けて使者に会おうとしなかったという話も残っています。

白眼視、阮籍

 

阮籍は儒教の礼儀を重んじるような人物が好きでなく、

特に気に入らない人物が訪ねてくると白眼で迎え、

 

阮籍と気の合う人物が訪ねてきた際は青眼で出迎えたそうですよ。

それが今に伝わる「白眼視」の由来になっています。

 

ただそんな変わり者だった阮籍ですが、

人の悪口を言ったり、人の失敗を馬鹿にしたりすることがなかったそうです。

 

また嵆康が処刑された事をいましめに、

世の中を良くしたいという気持ちはあったものの、政治に関わることもしませんでした。

 

 

そんな阮籍ですが、「大人先生伝」「達荘論」「詠懐詩」などの作品を残しており、

蜀が滅んだ263年に亡くなっています。