張繡(ちょうしゅう)

張繡は後漢末期の人物であり、彼のあざなは今に伝わっていません。

涼州武威郡祖厲県(現在の甘粛省一帯)の出身で、伯父(季父)に董卓配下の武将・張済がいました。

『三国志』魏書「張繡伝」に立伝されており、曹操を最も苦しめた武将の一人として知られています。

 

 

張繡は若い頃、県長の劉雋に才能を見出され、県吏として仕えました。

その頃、韓遂・辺章らの反乱に呼応した麹勝が挙兵し、劉雋を殺害します。

張繡は機を見て麹勝を討ち取り、主君の仇を討ったことで名声を得ました。

 

その後は伯父・張済に従い、西涼軍の一員として各地を転戦します。

李傕・郭汜政権下では建忠将軍に任じられ、宣威侯にも封じられました。

 

建安元年(196年)、張済は南陽郡穣県を攻めた際、流れ矢に当たって戦死します。

張繡はその軍勢を引き継ぎ、若くして一軍の指揮官となりました。

 

この頃、名軍師・賈詡が張繡のもとへ身を寄せます。

賈詡は張繡の武勇を高く評価しながらも、

「曹操と正面から争うのは得策ではありません」

と進言し、劉表との同盟を勧めました。

 

張繡はこれを受け入れ、南陽の宛に拠って荊州勢力と連携することになります。

宛城の戦い ― 曹操最大級の敗北

建安2年(197年)、曹操が南陽へ進軍すると、張繡は一度は降伏しました。

 

しかし、その後曹操は張済の未亡人を側室に迎えます。

この出来事は張繡の面目を大きく傷つけることとなりました。

 

さらに曹操が張繡を密かに討とうとしているという情報が伝わると、賈詡は先制攻撃を勧めます。

張繡は夜襲を敢行し、曹操軍に壊滅的な打撃を与えました。

 

この戦いでは、

  • 曹操の長男・曹昂
  • 甥の曹安民
  • 猛将・典韋

らが戦死し、曹操自身も辛うじて脱出するという、

曹操生涯でも屈指の危機となりました。

 

その後、張繡は舞陰まで追撃しましたが、曹操軍の反撃を受けて退却しています。

「魏志」張繡伝(裴松之注「傅子」)には、

建安2年(197年)に張繡が降伏した際、曹操は胡車児の武勇を賞して自ら金を与え、

この話を聞いた張繡は、側近に殺害されるのではないかと疑い、再度曹操に反逆したという逸話が残されています。

曹操との攻防&帰順

宛城の勝利後、張繡は再び劉表と連携し、南陽一帯で曹操と対峙しました。

建安3年(198年)、曹操は穣を攻撃します。

 

当初は劉表の援軍によって張繡側が優勢となり、曹操軍は退路まで遮断される危機に陥ります。

しかし曹操は伏兵を巧みに用いて反撃し、張繡軍を大破しました。

 

正史『三国志』によれば、この頃の張繡軍は劉表から兵糧の補給を受けるなど、

独立勢力というより荊州軍の一翼として行動する場面が多く見られます。

 

 

建安4年(199年)、袁紹と曹操の決戦(官渡の戦い)が目前に迫る中、袁紹は張繡へ味方するよう誘いました。

しかし賈詡は次のように進言します。

曹操は今こそ味方を必要としており、帰順すれば必ず厚遇するでしょう。

 

張繡はこれを受け入れ、曹操へ帰順しました。

曹操も過去の遺恨を捨てて張繡を厚遇し、揚武将軍に任じ、列侯に封じています。

また両家の関係を深めるため、張繡の娘は曹操の子・曹均に嫁ぎました。

張繍の活躍&最期

帰順後の張繡は忠実に曹操へ従い、

官渡の戦いでは武功を挙げて破羌将軍へ昇進しました。

 

さらに袁譚討伐にも参加して功績を重ね、封邑は二千戸にまで加増されています。

かつて曹操を窮地へ追い込んだ宿敵は、この頃には魏軍を代表する将軍の一人となっていました。

 

建安12年(207年)、曹操の柳城遠征(烏桓討伐)に従軍中、張繡は病に倒れ、陣中で死去しました。

死後は定侯と諡され、その功績が称えられています。

 

張繡は西涼武人らしい勇猛さを備えながら、

賈詡という稀代の策士を得たことで、曹操を幾度も苦しめた人物でした。

 

特に宛城の戦いでは、曹操軍に生涯最大級ともいえる損害を与え、その名を天下に轟かせています。

 

一方で、賈詡の進言を素直に受け入れ、

情勢を冷静に見極めて曹操へ帰順するなど、武勇だけでなく状況判断にも優れた人物でした。

 

正史では華々しい逸話は決して多くありませんが、

乱世を生き抜いた地方勢力の群雄の一人として、

そして曹操軍の有力将軍へと転じた人物として、高く評価できる一人です。

 

 

張繡の死後は子の張泉が爵位を継ぎました。

 

しかし建安24年(219年)、張泉は魏諷の政変に加担し、曹氏政権への反乱を企てます。

ただ計画は事前に発覚し、張泉は処刑され、張家の封国も没収されています。

『魏略』に伝わる異説

「魏志」張繡伝(裴松之注「魏略」)には、張繡の最期について別の説が書かれています。

 

それによれば、張繡は曹丕のもとへたびたび赴いた際、

「お前は私の兄・曹昂を殺した人物でありながら、よく平然と私に会えるものだ。」

と曹丕から皮肉を言われました。

 

張繡はこれを深く気に病み、不安のあまり自害したというのです。

 

もっとも、この説は陳寿の著した正史『三国志』本文には採用されておらず、

正史ではあくまで「柳城遠征中に病没した」とする記述が基本となります。