牛金(ぎゅうきん)

牛金はどこで生まれて、誰の子なのかなど

そういう出生に関する情報は何も残っていないけれども、後将軍まで出世した人物です。

 

牛金は曹仁に従って各地を転戦したとありますが、

実際どこでどんな戦いをしていたかなどは分かっていません。

 

牛金の名がはっきり登場するのは、赤壁の戦い(208年)に曹操が敗れた後です。

曹操は周瑜らの追撃を防ぐ為に、曹仁とともに江陵の守備を任せています。

 

赤壁の戦いに勝利した周瑜は、荊州を手中に収めるべく、

曹仁・牛金が守る江陵の城へ6000人を率いて攻め込んできます。

 

そこで牛金は、周瑜の出鼻を挫くために300人を率いて迎え撃ちますが、

兵力にしても士気にしても落ちる牛金軍は返り討ちにあってしまいました。

 

そればかりか周瑜軍に包囲されてしまった牛金は、

逃げ場を失って討たれそうになります。

 

これを城から見ていた曹仁は、直ちに曹仁が救援に出向いて、

牛金を無事に救い出したわけです。

 

これらのことは、「三国志曹仁伝」に記録が残っています。

曹仁なくして曹操なし

牛金のその後

これ以後しばらく牛金の名は消えていますが、

諸葛亮が祁山に侵攻してきた際には、司馬懿に従って参戦しています。

 

諸葛亮が亡くなった後の235年には、国境を侵して侵攻してきた馬岱を撃退したり、

239年に公孫淵討伐の為に司馬懿に従って戦いました。

「狼顧の相」の持ち主、司馬懿

 

最終的に牛金は後将軍まで出世して亡くなったそうです。

 

どのみち牛金に関する活躍は、

こういった形で一部一部に名前が出てきてるだけになります。

 

やはり個人伝が作られていないと仕方ないのかもしれませんね。

司馬懿に毒殺される

 

「晋書元帝紀」には、

玄石図という石碑の表面に「馬の後を継ぐのは牛である」という文字が浮かび上がりました。

 

これを見た司馬懿は、「司馬氏の後を継ぐのは牛氏である」と解釈し、

牛の姓を持っていた牛金を警戒するようになります。

 

そして司馬懿は毒入りの酒を準備して牛金を招き、

それを牛金に飲ませて毒殺したそうです。

 

 

なんか明らかな作り話のような気はしますが、

馬岱を撃退した話や公孫淵討伐も「晋書元帝紀」に載っている話なだけに、

完全に嘘だとも言えない感じですね。

 

ただ後にこの石の書き込みが大方当たったような記録も残っています。

「司馬氏の後を継ぐのは牛氏である」の後話

「魏書僭晋司馬叡伝」には、

司馬懿の曾孫にあたる司馬覲の妻であった夏侯光姫が牛金と浮気をし、

それで生まれた子が司馬睿であるということが記載されています。

 

「晋書元帝本紀」には牛金の名ではなく牛氏と書かれており、

牛金を名指しにはされていません。

 

 

司馬睿は、東晋の初代皇帝になる人物で276年に生まれている事を考えても、

まぁ作られた話の可能性が高いでしょう。

 

さすがに牛金の生存時期を考えても、

不可能じゃないにしろ、ちょっと考えにくい年齢ですし・・・

 

たまたま同姓同名の人物がいたということの方がまだ現実的です。

 

 

なので牛金が毒殺された話もそうですが、

密通した話もちょっと作られた話と考えるのが自然な気がします。

 

あくまで牛金と絞るのではなく、牛氏が密通して、

司馬睿を生んだだけの話ならば可能性は残るとは思いますけどね。