王祥(おうしょう)

王祥は60歳になるまで仕官の誘いを断り続け、

 

その年齢になって、

当時徐州刺使だった呂虔に誘われて仕えることになりました。

 

そして呂虔が王祥に徐州の政治の全般を任せると、

王祥は呂虔の期待に応えて、徐州の治安は非常によくなったそうです。

 

民衆らは、徐州が平穏でいられるのは王祥のお陰と大絶賛。

 

 

また呂虔は、自らが持っていた宝剣を王祥にあげました。

 

この宝剣を持っているものは、

三公の位につくことができると言われていたもので、縁起が良いとされていたものです。

その後の王祥

呂虔から大変信頼され、徐州の民からも支持された王祥は、

中央に呼び出され、九卿であった大司農に任命されます

 

そして曹芳そうほうに代わって、曹髦そうぼうが皇帝になると、

まだ幼かった曹髦の後見人を任されるほどになりましたが、

 

曹髦が司馬昭配下の賈充に殺害されると、

王祥は自分にせいで曹髦を守れなかったと心の底から嘆きます。

 

曹髦が亡くなり、魏のラストエンペラー曹奐そうかんが皇帝に即位すると、

呂虔が宝剣を渡す際に言っていた通り、三公の一つである司空まで昇進。

 

 

司馬昭は既に魏皇帝を凌駕するほどの力を持っていましたが、

 

その司馬昭が亡くなると、司馬昭の子であった司馬炎が晋王の位を継ぎ、

魏の役職的には宰相の地位を引き継ぐ形になりました。

 

周りの者達は、

「司馬昭様同様に司馬炎様に対して拝礼を行って尊ぶべきだ!」と言いましたが、

 

王祥は、「魏の宰相と三公ならほとんど同じ立場である。

なぜ私だけが司馬炎殿に拝礼する必要があるのか?

 

逆に拝礼すれば、曹奐様の名声を失ってしまう。

それだけではなく、司馬炎殿の徳すら貶めてしまうことにもなる。

 

そうなることが分かっていて、司馬炎殿に拝礼などできようはずもない!」

 

 

この話を聞いた司馬炎は、王祥を大変高く評価し、

 

司馬炎が魏を滅ぼして晋を建国した際は、

名誉職でしたが、三公より位的には高い太師たいし太傅たいふ太保たいほの中の「太保」に任命されます。

 

基本的に太傅以外は後漢の時代から排除されていましたが、

魏の末期に一時的に復活していた役職でした。

 

太保に任命された際も魏が滅んでしまったこともあり、

司馬炎に仕える気がなかった王祥は、

 

高齢であったことを理由にして仕官を断りますが、

司馬炎はそれを認める事はありませんでした。

 

仕方なく、そのまま太保として仕え続けることになった王祥ですが、

269年、85歳でその生涯に幕を下ろします。

60歳になるまで仕官しなかった理由は?

60歳になるまで王祥が仕官をしてこなかった理由についてですが、

王将は非常に親孝行な息子でした。

 

実母は王祥が幼い頃になくなっていますが、

父であった王融と父の再婚相手であった朱氏に対して、生涯孝行の道を貫きます。

 

 

ただ、王融や朱氏に嫌われてしまっていた王祥は、

ひどい仕打ちをたびたび受け続けますが、王祥は親孝行し続けました。

 

義理の母であった朱氏に毒殺されようとしたことも多かったため、

心の底から嫌われていたことがうかがえます。

 

当時の中国の考え方として、

どんな酷い親であったとしても孝行するのが当たり前だというのがあり、

 

子が親を生む事はできないが、親は子が亡くなってもまた生む事ができるというもので、

親の為ならば死ぬことすら当たり前といった感じでした。

 

そして義理の母であった朱氏がなくなるまで世話を続けた王祥は、

気づけば年齢が60歳になっていたのです。

「二十四孝」に数えられた王祥

60歳まで、自分を嫌う父の王融や義理の母である朱氏に対いて、

精一杯親孝行した王祥は、「二十四孝」の一人として数えられるようになります。

 

「二十四孝」の他の人物が一部の期間に対して評価されたのに対し、

王祥は自分の人生の多くを費やして親孝行を尽くした王祥は少し異質かもしれません。

「二十四孝」の一人で、孟宗竹の由来になった孟宗

天文学・暦学に通じていた「二十四孝」陸績

 

だからこそ王祥には、色々な親孝行の逸話が今でも残されています。

 

特に王融の再婚相手であり、

王祥から見たら義理の母にあたる朱氏に関する話が多いですね。

牛小屋の掃除

義理の母であった朱氏が、

王祥に対して牛小屋の掃除をさせることもありました。

 

王祥は、自分に対してそういう嫌がらせをする朱氏を恨むことはなく、

これまで以上に朱氏に対して大きな敬意をもって仕えたそうです。

氷の中の魚

朱氏が生魚を食べたいといった時に、

王将は川へ魚を捕りに来た時の事です。

 

しかし、川は寒さのあまりに凍り付いていました。

 

 

そこで王祥は、服を脱いで氷を割って魚を捕ろうと試みます。

 

そうすると不思議な事に氷が解けて、

溶けた氷の部分から鯉が二匹飛び跳ねて氷の陸に上がったそうです。

 

そこで王祥は、その二匹の鯉を労せず持ち帰って、

朱氏に食べさせることができました。

雀(スズメ)

 

ある時、朱氏が雀をあぶったものを食べたいと言った事がありました。

 

それを聞いた王祥が雀を採りにいこうとすると、

雀が何をするわけでもなく、数十羽の雀が家に入ってきます。

 

そして王祥は何をするわけでもなく、

雀を朱氏に食べさせることができたそうです。

リンゴの木

木にリンゴが実った時の事です。

朱氏は、王祥にリンゴを大切に育てるように命じました。

 

命じられた王祥は風が酷かったり、大雨が降った時は、

リンゴの木を守る為に、木を抱いて倒れたりおれたりしないように支えていたそうです。

義理の母に対して最期まで孝行の道を貫いた王祥

父であった王融の兄である王叡おうえいは荊州刺史をしてましたが、

あべこべに孫堅によって殺害されてしまいます。

 

ちょうど董卓の暴政が激化し、反董卓連合が結成されたあたりの頃ですね。

 

このことがあってから、王祥は義理の母であった朱氏や弟を連れて、

廬江へと移り住んでいきました。

 

 

それから30年間、様々な仕官の話を断り続け、

朱氏が死ぬまで世話を続けます。

 

もうその頃には、60歳にもなっており、

杖を使わなければ歩けないほどに体も弱っていたそうです。

 

ちなみに父であった王融については、

三国志正史での記載で廬江へ行った等の記載がないので、

 

廬江へ王祥らが移り住んだ頃には既に死んでいたかもしれませんね。