当時呉には「江南八絶」に数えられた、
趙達・劉惇・呉範・宋寿・鄭嫗といった占いの達人がいましたが、
魏には管輅というずば抜けた占いの達人がいました。
正史の「方技伝」にには、
管輅以外にも華佗・杜夔・朱建平・周宣といった人物の「伝」が立てられていますが、
「方技伝」後半部分のほとんどが管輅についての記述なんですよね。
それぐらいに当時、管輅の占いについてのエピソードが多く、
多くの部分を占める形で記録が残されたのでしょう。
三国時代には占いの達人が結構いるイメージですが、
その中でも管輅の占いの腕前はNO1といってもいいかもしれません。
管輅(かんろ/字:公明)
管輅は子供の頃から非常に星を見ることが好きで、
星を見すぎるがあまり、睡眠を忘れる事も多々あったそうです。
星を見てばかりで睡眠をあまりとらなかった管輅を心配した母親は、
「星をあまりに見すぎる事はよくないよ」
という理由で管輅に注意したことがありましたが、母親の注意を素直に聞くことがありませんでした。
管輅にとっては自分の好きな事に、
時間を費やしている事の何が悪いのかわからなかったわけですね。
そんな星の観察に夢中になっていた管輅ですが、
周りの者達は「神童」と呼んで管輅を高く評価していました。
曹操が愛して止まなかった曹沖も神童と呼ばれていましたから、
管輅も非常に優れた子供だったということでしょう。
「天文占いの達人」郭恩に弟子入り
管輅の父親が徐州の瑯邪の県長になった際についていくのですが、
たまたま琅邪に天文占いの達人である郭恩がいたので、
星への興味が尽きなかった管輅は、郭恩の元で学ぶことを決意します。
管輅の天文占いの腕は瞬く間に開花し、
管輅に占わせた事が外れる事がなくなり、
師匠であった郭恩を百日掛からず超えてしまいました。
「好きこそものの上手なれ」ってことわざがありますが、
まさにそれに管輅は当てはまりますね。
郭恩との逸話
師を超えるほどに成長した管輅に対して、郭恩が訪ねる事が増えていました。
そんな二人の間の逸話も残っています。
郭恩は自分の足の調子が悪いことを悩んでおり、
その理由について弟子の管輅に尋ねた事がありました。
その悩みを聞いた管輅は占いによって、
郭恩の悩みの原因を突き止めます。
それはかつて多くの人々が飢饉に悩まされていた頃、
郭恩の父の兄弟がなんとか生き延びるために、
妻を殺害して食糧を奪って井戸につきおとした事が原因であり、
誰にもその事を話していなかった郭恩ですが、
見事に過去の出来事を言い当てられてしまいます。
管輅からそれが原因だと言われた郭恩は涙を流しつつ、
井戸に捨てられたままであったその女性を丁重に弔ってあげたそうです。
それ以後、郭恩の足の調子は元通りになりました。
このことからも分かりますが、
管輅は天文学のみならず、人相占いにも精通しており、
他には風占い・易占いなども極めていたと言われています。
王基との逸話
王基は190年に生まれ261年まで生きた人物で、
魏の元で安平太守を任された時に管輅と知り合っています。
その後一時的に失脚していますけど・・・
この時に易占いをしてもらったのですが、管輅は次のように占いました。
「身分の低い身分の女性が男の子を産み、
その男の子は産まれてすぐに竈まで自分の足で走って飛び込んだことがあったでしょ?
また家の中で大蛇が筆を口にくわえていたけども、
しばらくするとどこかへ去って行ったこともあったでしょ?
他には部屋の中でカラスとツバメが争い、
ツバメを殺した後にカラスが飛び去ったこともあったでしょ?」
これら管輅が易占いで導き出したことに、
過去に王基が全て実際にあった出来事だった為に大変驚きます。
そこで自分がどうすればよいのかを訪ねると、
管輅は心配するようなことではないと王基に伝ました。
そして管輅の言った通り、
曹爽側の人間でしたが連座の罪を免れただけではなく、
その後に見事に復職し、魏の元で活躍を続けました。
そして王基が261年に亡くなるまで、悪い事が起こることはありませんでした。
そもそも生まれたばかりの男の子が、自分の足で竈まで走ったとか
この話は現実的に作り話かなと思ってしまいますけども・・・
それだけでなく「飛び込んだ」とか結構やばすぎますね。
王経との逸話
農民から雍州刺史にまで出世し、
最後まで司馬一族ではなく曹一族への忠義を貫いた王経という人物がいますが、
この管輅と王経の逸話は、
王経が雍州刺史に任じられる前に江夏太守に任命された少し前の話です。
王経が中央の職を辞めて故郷に戻った時の事ですが、
王経は管輅に占ってもらった事がありました。
管輅は王経を占って、次のように語ります。
「夜中に王経殿が扉の前に座り、
小さな光が王経殿の懐の中に入ってきて音を立てた事があったでしょう。
そしてそれに驚いた王経殿は来ていた上着を脱いで、
その光を妻と一緒に探したことがありませんでしたか!?」
王経は管輅が言ったとおりの事を経験しており、
「まさに貴方が今言った通りだよ」と答えたそうです。
管輅は、それは吉兆の兆しであり、
「近々復職して昇級するだろう」という事を伝えた事がありました。
それから間もなくして王経は復職し、江夏太守に任命されたというお話です。
鍾毓との逸話①
鍾繇の子である鍾毓(鍾会の兄)の元を管輅が訪ねた時の事です。
鍾毓は占いなんてものを信じていなかったこともあり、
管輅は自分の占いが正しいものであることを証明する為に、鍾毓の死ぬ日を言い当てる流れになります。
ここで鍾毓は、死ぬ日を占ってもらう前に、
「自分の生まれた日をまず占ってくれないか!?」
と言い出します。
管輅は承諾し、鍾毓の誕生日を見事に言い当てます。
自分の正確な誕生日なんて人に言うようなものではなく、
管輅がそれを見事に言い当てた事で、
管輅の占いの力を認めると同時に、
自分の死を占ってもらう事が急に怖くなってしまい、
結局、鍾毓が自分の死について占ってもらう事はありませんでした。
鍾毓との逸話②
鍾毓が誕生日が言い当てられてしまった後に、
鍾毓は管輅に対して、
「世の中はどうなっていくのでしょうか?」と尋ねます。
管輅はこれに対して、
「現在、隅に追いやられていた龍が飛び立とうとしています。
そして時代が変わり、新たな時代が到来します」と答えたのでした。
鍾毓はこれに対してよく意味が分かりませんでしたが、
間もなくして曹爽一派が司馬懿のクーデターによって粛清され、
司馬一族が大きな力を持つようになっていったことを目の当たりにし、
その時になって管輅が言っていた意味が分かったというものです。
何晏との逸話
大将軍で宦官に殺害された何進の孫で、
曹操の実子同様に育てられた何晏という人物がいましたが、
これは何晏が曹爽一派として大きな権力を手にしていた時の話です。
何晏が管輅を招待して、
「管輅殿の占いの的中率は右に出る者がいないと聞く。
私が将来、三公(司徒・司空・太傅)にまで出世できるか占ってくれないか?
ちなみに最近、何十匹の蠅が鼻にたかってくる夢を見る。
そしてどういうわけか手で払っても、その蠅は逃げていかない。
これは何を表しているのだろうか?」と尋ねます。
これに対して管輅は、
「鼻というのは高い権威を表しており、
そこに何十匹と蠅がたかっているのはよいことではありません。
何がいいたいかというと、
もし何晏殿が今のままでいるとよからぬ事が起こるということです。
かつて仁政を行った王や儒教の生みの親である孔子を見習って下さいませ!」
と述べたそうです。
これに対して何晏の側近が管輅に対して、
「そんなことは年寄りの迷信だ!」と返すと、
管輅は「年寄りだから分かる事もありますよ」とすかさず返答します。
そして何晏は色々と思うところがあったものの、
管輅に対して「来年にもう一回会ってくれ!」と言うと、
管輅は何晏の元を後にしたといいます。
管輅が、こういうやりとりを何晏としたことを
管輅の親戚(母の尹夫人の兄弟にあたる夏氏)であった叔父に話すと、
叔父は「そんな失礼な事を言って、
お前は大丈夫なのか!?」と注意したようです。
それに対して管輅は、
「私は死人に対して述べただけであって、
何を恐れる事があるんのでしょう!」と答え、
これを聞いた叔父は管輅がとちくるったのではないかと思ったわけです。
しかしそれから2週間もしないうちに、
司馬懿のクーデターによって曹爽一派は静粛されてしまいます。
管輅が言っていた通りになったのでことで、
叔父はびっくりたまげたといいます。
最後の占い
255年の頃に、管輅の弟である管辰から、
「司馬昭様が兄様のことを気に入っています。
だから兄様は将来出世が約束されているようなもんですね」と言われた際の話です。
それを聞いた管輅は喜ぶこともなく、
「私は自分自身の力をよく分かっている。
残念ながらその頃にはもう手遅れななんだよ。
何故なら私の息子や娘が結婚する姿を目にしないまま、
来年か再来年には死んでしまうのだから。
もしもこの時に死ななかったならば、
洛陽の街で落とし物を拾っても着服する者がいないような平和な政治ができるような役人になりたい。
でもまぁ無理であろう・・・
何故なら私は自分と同じ人相をした者で外れた事が一度もないのだから。
自分自身の事だからと例外なんてないものだ。
だからおそらくは・・・」と深いため息をついたそうです。
実際この話をした翌年の256年2月に、管輅はこの世を去っています。
人の占いだけでなく、自分自身の寿命に関する占いですら、
管輅は見事に的中させたのでした。