馬騰・馬超親子に仕え、
流浪の末に曹操に仕えることを決意した龐徳の生涯について見ていきます。
そして「忠義の士」として・・・
目次
龐徳(ほうとく)
涼州出身だった龐徳は、後漢軍からあべこべに韓遂勢力に寝返って、
涼州・雍州で暴れまわっていた馬騰に仕えます。
龐徳の名が一躍天下に知れ渡るのは、曹操と袁紹遺児との戦いでした。
当初馬騰は袁尚・袁譚側に味方しようとしていましたが、
曹操軍の鍾繇らの説得もあり、馬騰は曹操に味方することを決意するのですが、
この時に曹操の背後を攻める為に攻めてきていた郭援・高幹・呼廚泉の討伐にあたったのが、
馬騰が派遣した龐徳・馬超らでした。
龐徳・馬超は兵士1万人を率いており、
数倍の兵力を率いていた郭援・高幹・呼廚泉を見事に防ぐことに成功!
この時に馬超は負傷してしまいますが、
一方の龐徳は先鋒となって郭援を討ち取り、高幹・呼廚泉を見事に撃退したのでした。
蒼天航路(27巻74・75P)より画像引用
これにより龐徳は郭援の首を討ち取り、
袁尚・袁譚らの曹操の背後をつくという計画は見事に失敗!
この戦いで龐徳の名は一気に天下に知れ渡ることとに・・・
そして曹操は龐徳を称え、中郎将・都亭侯に任じて報いたのです。
鍾繇と龐徳に関する逸話
馬超・龐徳らは見事に郭援・龐徳は敵将であった郭援の首を持ち帰り、
それを鍾繇に今回の手柄として見せます。
そして郭援の首を見た鍾繇は号泣したのでした。
その理由は鍾繇の甥にあたるのが郭援だったからで、
それを瞬時に悟った龐徳は、郭援を討ち取ったことを謝罪したわけです。
龐徳が謝罪したことに対して、
「郭援は私の甥とはいえ、ただの国賊に過ぎない!
龐徳殿が謝ることなど一切ないですよ」と鍾繇は龐徳に優しく話しかけたといいます。
高幹・張白騎VS龐徳
郭援が討ち取られ、袁尚の本拠地であった鄴が曹操によって落とされると、
204年、高幹・呼廚泉は曹操に降伏しました。
しかし翌年の205年に高幹は黒山賊の張白騎と手を組んで再び挙兵!!
この時に高幹らの討伐に向かったのが、
馬騰が曹操への援軍として再度派遣した龐徳でした。
龐徳は戦うたびに勝利をおさめ、曹操は龐徳の武勇を改めて褒め称えたそうです。
三国志演義の影響もあり、馬超の武勇が非常に有名ですが、
「実際馬超は本当に強かったのか?」と思うような記載が多いです。
例えば郭援・高幹・呼廚泉の戦いで負傷したり、
一騎打ちで死にかけたりと、結構色々やらかしてる記述が多いですしね。
その一方で龐徳はきちんとした結果を残し続けた点からも、
もしかすると龐徳の方が馬超より猛将だった可能性も否定できない気はします。
馬超に仕えた龐徳
馬騰が曹操の命によって中央に呼び出されると、
馬超は涼州に残り、馬騰の兵を引き継ぐことになるのですが、
この時に龐徳は馬騰に従ってついていくことはせず、
龐徳も涼州に残り、馬騰の息子であった馬超に仕えることにしたのでした。
そして主君であった馬超が韓遂と手を結び、曹操に決戦を挑みます!
有名な潼関の戦いですね。
実際は馬超と韓遂だけでなく、
楊秋・成宜・李堪・程銀・侯選・張横・馬玩・梁興など、
涼州で力を持っていた軍閥の連合権だったのが正確なところですね。
この戦いで馬超・韓遂連合軍は、曹操を苦しめはしたものの、
最終的に賈詡の離間の計に見事にかかった韓遂と馬超の仲は崩れ去り、
そこを曹操軍につかれた形で曹操の勝利に終わったのでした。
その後、馬超は再起をかけて再度蜂起するものの、
趙昂・王異らの活躍もあって、馬超は再び敗れることとなったのでした。
行く宛を失った馬超は漢中の張魯を頼って落ち延びるのですが、
龐徳も馬超に付き従って漢中へと流れていくこととなります。
馬超と袂を分かつ
蒼天航路(29巻160P)より画像引用
馬超と共に漢中へと落ち延びた龐徳でしたが、
張魯の兵を借りつつ何度か涼州奪還に挑んだりしますが、
最後まで涼州を取り返すことはできませんでした。
その後馬超が益州へと向かい、劉備に仕えるのですが、
この時に龐徳は張魯の元に留まり、主君であった馬超と袂を分かつこととなります。
それから少しして漢中へと攻め込んできた曹操に張魯が敗れると、
龐徳は曹操に仕えることとなったのでした。
曹操は郭援を討ち取ったりと、龐徳の武勇が優れていたことを知っていたこともあり、
曹操は立義将軍・関門亭侯に龐徳を任じて迎えたのです。
曹操傘下での龐徳の活躍
曹操が漢中を平定してからしばらくすると、
劉備が漢中へ侵攻を開始します。
この時、夏侯淵・張郃らが漢中を守っていましたが、
大変な苦戦を強いられてしまいます。
そしてそんな折に、218年10月に宛を守る侯音が反乱を起こしたわけです。
侯音は関羽と通じていたと言われていますが、
おそらく関羽と直接約束はしていなかったと思われますね。
なぜなら侯音の反乱に乗じて、関羽が攻め込んでくることはなかったからです。
孤立無援の中でも侯音は約4か月の間、抵抗を続けたものの、
最後まで関羽が動くことはなく、侯音の反乱は鎮圧されてしまいます。
この時に侯音の反乱鎮圧を任されたのが、
曹操が絶大なる信頼を寄せる曹仁と龐徳だったわけです。
龐徳にとっては曹操傘下での最初の大きな功績といっていいでしょう。
結果的に失敗に終わった侯音の反乱でしたが、
劉備が漢中を奪うことに貢献したのは間違いないと思います。
何故なら曹操が漢中への援軍の為に既に長安にいたにもかかわらず、
ここから動けず、侯音や関羽の動きに警戒して援軍が遅れてしまったからですね。
侯音の反乱を無事に鎮圧した曹仁と龐徳でしたが、
本当の脅威は荊州の関羽だったこともあり、樊城に入って防衛体制を敷いたのでした。
最後の晴れ舞台
荊州より関羽が侵攻を開始すると、
関羽により曹仁らは翻弄され、ジリ貧状態に追い込まれていきます。
そんな中で龐徳は、関羽の額を矢で射抜くという大手柄をあげたのでした。
しかし何故か関羽はこれで死なず、普通に戦い続けます。
まぁもうギャグでしかないですね、額を射抜かれてもお構いなしに戦うとか・・・
おそらく頭蓋骨が矢から脳を守ってくれたおかげで、
致命傷にならなかったのでしょうね。
その後、樊城の危機を知った曹操は、于禁を援軍として送りますが、
によって川が氾濫し、一瞬で援軍が壊滅してしまいます。
これは関羽が川をせき止めたという計略とも言われていますが、
実際のところただ単に運がよかったのかどうかは定かではないですね。
溺死を免れた者達は、于禁と共に関羽に降伏してしまう始末・・・
曹仁の立場としては一瞬で援軍を失ってしまったわけです。
そしてそれだけでなく、
川が氾濫によって樊城は水没してしまう事態になったのでした。
また樊城の外に陣を敷いていた龐徳も例外ではなく、
川の氾濫で多くの兵士を失い、戦える状況ではなくなります。
それでも龐徳は最後の最後まで抵抗を続け、曹仁の守る樊城へと退却を試みますが、
その願いは叶わず、関羽に捕らえられてしまったのでした。
原因は戦いながら小舟で樊城に撤退を試みたけれども、
小舟が途中で転覆してしまい、捕らえられてしまったという流れですね。
三国志演義と正史での違い
ちなみに正史では樊城を守っていたのが曹仁や龐徳だったのに対し、
三国志演義では于禁の副将として樊城へ赴いています。
また三国志演義では、額に矢を当てたのではなく、
一騎打ちの際に左腕に毒矢を当てて関羽を負傷させる設定になっていますね。
ここで関羽の射抜かれた腕が日に日に悪化し、
麻酔なしに華佗に腕を治療してもらった話は有名かと・・・
それも関羽はただ治療を受けていたのではなく、
馬良と囲碁をしながら平然と手術を受けた様子が描かれています。
最後まで忠義を貫き通した龐徳
蒼天航路(34巻177P)より画像引用
関羽に捕らえられた龐徳ですが、
関羽は見事に最後まで戦い抜いた龐徳を殺すのを惜しみ、
「劉備に仕えないか?」と勧誘します。
まぁ龐徳の元々の主君であった馬超や従兄の龐柔が劉備に仕えていたこともあり、
そういう繋がりもあって降伏するように勧めたわけですね。
これに対して龐徳は、
最後まで自分を信じてくれた主君の曹操を裏切ることはできず、
「私は国家の亡霊となったとしても、賊将に仕えることなどありえぬ!
負けたからには潔く首を刎ねられるだけだ!!」と言って関羽の降伏の誘いを断ったのでした。
関羽は龐徳の覚悟を知ると、関羽自ら首を刎ねてあげたといいます。
後に于禁が降伏し、龐徳が処刑されたことを知った曹操は、
「于禁と知り合ってからもう30年もたつのに、
忠義を最後まで貫いたのが新参者であった龐徳だとは思いもよらなかった・・・」
と言ったといわれています。
龐徳の忠義心は高く評価され、
243年に曹操の廟庭に祭られた20人の一人に入れられています。
一方の降伏した于禁ですが、関羽が敗れると呉の捕虜となり、
曹丕の時代に魏へと返されていますが、最終的に不幸な最後を迎えたのです。
まさに龐徳と于禁は、対照的な最後だったわけですね。