漢帝国から禅譲という形で、
「魏」を建国した曹丕。
魏の初代皇帝でありながら、残忍な性格も持ち合わせており、
妻であった甄姫を死に追いやったり、
実の兄妹である曹彰・曹植・曹熊に対する仕打ちなど・・・
それではそんな曹丕の生涯について見ていきたいと思います。
曹丕(そうひ/子桓)
曹操と卞氏(卞夫人)との間に曹丕は生まれます。
二人の子としては、他に曹彰・曹植・曹熊の弟がいますね。
もともと曹丕は皇太子候補ではなかったのですが、
曹昂・曹沖などが亡くなっていくと、皇太子候補へとあげられることとなります。
何故なら曹昂が亡くなった事が原因で、
育ての親であった丁夫人は曹操と離婚していますし、
その際に第三夫人であった卞氏(卞夫人)が正室の立場に置かれることになったからです。
ここで少しだけ補足しておくと、
曹昂の生みの親である第一夫人であったのは劉氏(劉夫人)ですね。
劉夫人は早くに亡くなってしまった為に、
子がいなかった丁夫人が曹昂を育てていたわけで・・・
ちなみに曹昂の弟には曹鑠がいましたけど、曹鑠も早死にしていますから、
自然と曹丕が年齢的にも皇太子の最有力候補となっていったのです。
ただそんな曹丕も油断できないような相手がおり、
それが曹操が心から才能を愛した曹沖の存在でした。
ただ曹沖が13歳で亡くなってしまうのですが、
後に曹丕が皇帝になった際に
「曹昂が生きていても厳しかったかもしれないが、
曹沖が生きていたら私が跡を継ぐことは確実になかった!」
とまで言っていることからも、
周りの皇太子候補であった者達が偶然にも亡くなってくれたことで、
運よく曹丕が皇太子になっていったという感じでしょう。
曹丕・曹植の後継者争い
最終的には曹丕が太子になるわけですが、
曹丕が太子になる以前に太子の座を脅かした存在がまだいました。
実弟である曹植ですね。
これは曹操が曹植の才能を愛したことで起こった問題で、
楊修・丁儀・丁廙・邯鄲淳・楊俊・荀惲・孔桂・応瑒などが持ち上げたことで、
二人の後継者争いは大きなものとなっていきます。
しかし曹植は酒にだらしない性格で、
トラブルをおこすようになっていくと、
曹操の寵愛も薄れていき、曹植派の者達も誅殺されていったのです。
最終的には、曹操に決断させたのは賈詡だと言われています。
曹操がどちらを後継者にするか悩んでいた際に、
曹操が賈詡に訪ねたことがありました。
賈詡は少し時間をおいて
「袁紹と劉表のことを考えていました・・・」と答えたのです。
どちらも後継者争いから国が衰退した身近な例であり、
どちらも曹操(外敵)によって滅ぼされており、これを聞いた曹操は曹丕を太子に決定したといいます。
曹操が亡くなる三年前(217年)の話です。
「魏」の建国&呉討伐
曹丕は献帝から「禅譲」という形で皇帝の位を譲り受け、
「魏」を建国したのでした。
これにより漢王朝の命運は完全に尽き、
今後は劉備が漢王朝の意志を引き継いでいくこととなります。
つまり蜀漢(漢)の誕生ですね。
曹丕は「夷陵の戦い」に勝利した呉の背後をついて、
三方面からの侵攻を計画し、
夷陵の戦いで疲れていた呉の背後を攻めたのでした。
- 濡須口(曹仁)
- 洞口(曹休・張遼・臧覇)
- 江陵(曹真・張郃・徐晃・夏侯尚)
結果的に曹丕の三方面の戦いは失敗に終わるわけですが、
その後も曹丕は数度にわたって大軍を率いて呉へと攻め込んでいきますね。
しかし呉の守りは堅く、結局呉に勝利することはなかったのです。
曹丕の最後
皇帝に即位し、「魏」を建国した曹丕ですが、
在位期間短くしてこの世を去ることとなったのです。
四十歳という若さでした。
曹丕の死因については、
風邪が悪化して肺炎になったからだとよく言われていますが、
正史には「夏五月丙辰、帝疾篤」と書かれているだけなので、
正確な病名は私の知る限り、分からないとしか答えようがありません。
まぁこの時代、病で亡くなる者も非常に多かったですし、
皇帝であった曹丕も例外ではなかった事だけは間違いないでしょう。
まぁ余談にはなりますが、
「方技伝」に記載が残る人相見に朱建平という人物がいました。
曹丕がまだ五官将にあった頃の話ですが、
朱建平に占ってもらったことがあったようです。
この時に朱建平は次のように占ったとされています。
「曹丕様の寿命は八十歳になります。
ただ四十歳に成った時に些細な災難がふりかかってくるので、
その時だけは気を付ける必要があります。」
もしも曹丕がこの時の病気を乗り切ることができていたならば、
朱建平が占っていたように八十歳まで長生きしていたのかもしれませんね。
曹丕の逸話・評価
曹丕の逸話と言えば、
一言で言ってしまえば冷酷なものが大多数を占めます。
曹丕の妻であった甄姫(甄夫人)を死に追いやったり、
曹洪に逆恨みをして殺そうとしたり、于禁を憤死させたなんて話もありますし、
実弟である曹彰・曹植・曹熊への対応などもそうですね。
ただ数えればきりがないほどのこういった逸話は残っていますが、
「建安の三曹七子」に数えられるほどの才能の持ち主であったこともまた事実です。
曹丕の代表作の一つである「燕歌行」は七言詩で作られたものですが、
これは現存している世界最古の七言詩だったりしますからね。
そんな曹丕を「三国志」を著した陳寿は、
「曹丕は優れた才能を持っていたが、
度量が狭く、公平さに欠け、仁慈の心を持ち合わせていなかった。
もしもこれらを併せ持っていたならば、
古の君主とて曹丕にかなわなかったであろう」と・・・
このことからも分かるように、陳寿は曹丕の才能を高く評価していたものの、
性格面については厳しい評価を与えたのでした。