朱建平 -人相占い-

正史の魏志「方技伝」に記載されている人物として、

華佗(医術)や管輅(占い)が圧倒的に有名ではありますが、

他にも占いの分野で方技伝に名が残る人物としては杜夔・朱建平・周宣の三人があげられます。

 

その一人である朱建平しゅけんぺいですが、人相見(人相占い)として民衆の間で名が知られていましたが、

特に馬の相(馬相占い)を見ることも得意だったとようです。

 

その話を聞いた曹操は同郷出身(豫州沛国)であったこともあり、

朱建平を招いて侍郎に任命します。

 

朱建平が招かれた時期は曹操が魏公に任じられていた時の話ですので、

213年~216年の間という事になりますね。

  • 建安18年(213年)曹操の魏公就任
  • 建安21年(216年)曹操の魏王就任

 

また朱建平の占いに関する逸話が残っている人物は次の8名です。

  • 曹丕
  • 夏侯威
  • 曹彪
  • 応璩
  • 荀攸
  • 王粛
  • 王昶
  • 程喜

 

 

三国志の残る占いに関する記録は的中した記録がほとんどでではありますが、

朱建平に関しては外れた占いの結果も残されています。

 

外れた人物として記録が残るのは、王粛・王昶・程喜の三名なんですが、

王昶・程喜の二人に関しては具体的な内容は今に伝わっていません。

曹丕の人相占い

朱建平は曹丕に対して、次のように占った事がありました。

将軍様の寿命は80歳まで尽きる事はありませんが、

ただ40歳の時に些細な災難がふりかかってきますので、この時だけはお気を付けください。

 

それからしばらく時が経った建安二十五年・黄初元年(220年)、

曹操が亡くなり、曹丕が後継者となって魏を建国しました。

 

そしてそれから時が経った黄初7年(226年)5月の丙辰(16日)に病に倒れ、

翌日である丁巳(17日)に嘉福殿にて崩御します。

 

この時の曹丕の享年は40歳でもありました。

 

 

曹丕は臨終の際に次のような言葉を残したそうです。

朱建平が私の寿命が80歳だと言ったのは、

私に気遣って一日を昼・夜の二つに分けて80歳と答えてくれたのであろう。

 

ただ朱建平が些細なほどの災難と言っていた40歳が、私の本当の寿命であったのだろう。

曹丕の馬

朱建平が馬の相を占った逸話も現在に残されています。

 

朱建平が曹丕(文帝時代)の乗る馬の相を偶然に見かけた事がありました。

曹丕は外出の為の馬を選び、宮中に引き入れられている最中の事です。

 

その馬を見た朱建平は、人にこう述べたといいます。

この馬の寿命は残念ながら今日限りであろう。

 

そして曹丕がその馬に乗ろうとした矢先、

曹丕の衣服にある香の匂いを嫌って曹丕に嚙みつきます。

 

これに曹丕は激怒し、即座に斬り捨てたといいます。

曹丕 -漢を滅ぼし、魏を建国した初代皇帝-

夏侯威の人相占い

朱建平は夏侯威に対して、次のように占った事がありました。

夏侯威殿は49歳の時に州牧に任じられることでしょう。

ただそれと同時に災難も降りかかってまいります。

 

もしもその災難を夏侯威殿がうまく乗り切ることができたならば、

70の年齢まで生きられ、天子の後見人を任せられることにもなるでしょう。

 

夏侯威は朱建平の言った通り、49歳の時に兗州刺史に任じられたわけですが、

その年の最後の月である12月に大病を患ってしまいます。

 

この時に夏侯威は朱建平の占いを思い出し覚悟を決めたといいます。

 

夏侯威は遺言を残し、後は死を待つだけの状態でありましたが、

覚悟とは裏腹に病が快方に向かいました。

 

夏侯威は後一日で新年を迎えること(数え年で50歳)ができると喜び、

前祝いとして宴会を開くものの、その最中に病が悪化て亡くなったしまったのでした。

曹彪の人相占い

曹彪は曹操と孫姫の間に生まれた人物ですが、朱建平に占ってもらった事がありました。

曹彪殿は藩国(王位)をお預かりになりましたが、

57歳の時に兵難にあいますので、気をつけてお過ごし下さい。

 

ちなみに藩国とは王室を護衛する諸侯を指したり、単純に領地を表すだけの意味がありますが、

曹彪は太和六年(232年)の時に楚王に封じられ、景初三年(239年)の頃には三千戸を頂いていました。

 

その10年後にあたる嘉平元年(249年)に、

曹芳廃立計画を立てた王淩らによって、曹彪を担ぎ上げられてしまいます。

 

しかし嘉平三年(251年)に王淩の計画が露呈したことで、

半ばとばっちりを受ける形で曹彪は死を賜ります。その時の曹彪の年齢は57歳でした。

応璩の人相占い

朱建平は応璩に対して、次のように占った事がありました。

応璩殿は62歳で常伯(侍中)に任じられるることでしょう。

ただその時に災難にも見舞われます。

 

また災難に見舞われる一年ほど前に、応璩殿にだけ白い犬が見える事でしょう

 

その後の応璩ですが、61歳の時に侍中に任じられています。

ただ曹芳が即位した後に侍中・大将軍長史となった事が既にありますので、

再度侍中に抜擢されたという言い方が正確でしょう。

 

そして応璩は侍中に任じられた同年に白い犬も見かけたわけですが、

周りの者には白い犬は見えていなかったといいます。

 

応璩は朱建平の占いを思い出し、寿命が消えようとしていることを悟ったようです。

 

この出来事があってからというもの、

応璩は友人と酒を酌み交わしたり、旅に出たりと残された人生を謳歌し、

死を受け入れた上で人生を謳歌し、最終的に63歳で亡くなったとされています。

 

一年という違いはありますが、朱建平の占いは正解だと言える結果だと思います。

荀攸の人相占い

策略家としても有名な荀攸ですが、

荀攸もまた朱建平に占ってもらったことがある一人でした。

 

朱建平による荀攸の占いの結果は次のようなものでした。

年上である鍾繇よりも早くに亡くなってしまい、

残された遺族の面倒を見てもらうことになるでしょう。

 

このことを荀攸が鍾繇に話すと、

「もしも本当にそのようになったら、私が妾の再婚相手を探してあげましょう。」

と鍾繇も冗談交じりに話したといいます。

 

その後に占いの結果通り、鍾繇より先に荀攸が亡くなった際に、

鍾繇は大いに悲しむと同時に、荀攸の残された家族の面倒を見てあげています。

荀攸・鍾繇の余談話

ここからは余談になりますが、二人は親密な交友関係を築いており、

荀攸の兵法のなんたるかを知っていたのは鍾繇だけだったといいます。

 

鍾繇は荀攸の兵法(12の策略)が、

この世から失われてしまう事を惜しんで記録に残そうとしますが、

鍾繇が死ぬまでに完成させることができず、荀攸の兵法のほとんどが後世に伝わることはなかったといいます。

 

ただ荀攸が亡くなってから16年以上の世まで生きていたのですから、

十分に時間はあったんじゃないかなと思ってしまいますね。

曹操に「漢の蕭何(しょうか)に匹敵する」と称えられた鍾繇

王粛の人相占い(予言不的中)

朱建平は王粛に対して、次のように占った事がありました。

あなたの寿命は70歳を超え、三公にまで昇られることでしょう。

 

この占い結果に、王粛は大変に喜びますが、

王粛が62歳の時に重病にかかってしまいます。

 

ただ王粛は朱建平の占いを信じており、この状況に何も心配していませんでした。

私はまだ70歳の年齢にも達していないし、

三公にもなれてもいないので何も問題はないだろう。

 

しかし王粛はそのなま亡くなっており、朱建平の占いが外れています。

また王粛と並べた形で王昶・程喜の名が挙げられています。