曹操の守護神といってまず名が挙がる人物は、

悪来典韋こと、典韋のことでしょう。

 

最後は曹操を守って倒れますが、典韋の役割は許褚へと引き継がれていくこととなります。

生涯にわたって曹操を守り抜いた豪傑「許褚」

若かりし頃の典韋(てんい)

若かりし頃の典韋には次のような逸話があります。

 

友人であった劉氏が李永によって討たれるという事件が起こると、

典韋は仇討ちの為に行動に移します。

 

ただ李永は富春県長に就任していたこともあり、

厳重な警備をつけていました。

 

 

しかし典韋は懐に短剣を忍ばせ、

 

客を装って警備を突破し、

李永夫婦を刺し殺すことに見事に成功!!

 

 

李永夫婦を刺し殺した典韋に追手が差し向けられますが、

典韋はなんとか逃げおおせ、このことから典韋は一目置かれるようになっていったわけです。

曹操に仕えることになった典韋

董卓が台頭すると、反董卓連合が結成される流れになりますが、

陳留太守であった張邈はこれに参加しています。

 

典韋は張邈の元で一兵卒として戦いに参加していますが、

実際は司馬であった趙寵ちょうちょうの軍に所属する形で戦っています。

 

 

この時の典韋の逸話が残っていますが、

大きくて重かった大将旗を誰も一人で持ち上げることができなかったのですが、

 

典韋はこの大将旗を片手であっさりと持ち上げたことで、

趙寵の目に止まることとなったのでした。

 

 

その後、正史の方では夏侯惇に属したみたいに少し時間が飛んだ記載がされていますが、

おそらく次のような背景があったのではと思っています。

 

曹操といえば青州黄巾賊を吸収した事で大きな力を手に入れますが、

この青州黄巾賊が暴れていた時に兗州刺史であった劉岱(討伐派)が討死しています。

 

これを打開すべく、鮑信(篭城派)が

東郡太守であった曹操を兗州牧として迎え入れている背景があるわけです。

 

 

また張邈は、反董卓連合の際に袁紹の怒りを買って殺されそうになったところを、

曹操によって助けられるといこともあってか、

 

曹操とは友人関係であり、

このあたりの頃に張邈が曹操の兗州牧を支持したりしたのでしょう。

 

 

そこで典韋が配置転換などが行われた結果、

典韋が曹操の部下である夏侯惇の部隊に所属したという流れだと思います。

 

 

このあたりでのタイミングしかないと言ったのは、

 

曹操が兗州牧となった後には、

張邈は呂布と組んで曹操に反旗を翻している点からですね。

 

 

典韋は呂布との戦いの時に手柄をあげていますし、

 

配置転換が行われるのならば、

曹操が兗州牧になったあたりしかありませんから・・・

 

 

ただ単純に張邈と典韋が仲違いしただけの話だという説もありますが、

兎にも角にも典韋は夏侯惇の元で活躍して司馬に任じられています。

曹操VS呂布戦で大きく名をあげた典韋

曹操が後方で陳宮らと共に反乱を起こした呂布と戦った際には、

 

呂布軍の陣営に夜襲をしかけて勝利したものの、

勝利して帰還する曹操に対して呂布本人が攻撃を仕掛けてきたのでした。

 

 

夜襲で敗れた呂布軍ですが、

偶然にもその直後に呂布自らが援軍として駆けつけてきたことで、

 

勝利して油断しているであろう曹操軍へと攻撃をすぐさま仕掛けたわけですね。

 

呂布自身も武器を取って戦うほどであり、

両者の間で激しい戦いが繰り広げられることになります。

 

 

これを打開すべく曹操が行ったことが決死隊の募集でした。

 

曹操がかけた募集に真っ先に手を挙げたのが典韋であり、

典韋以外に募集に手を挙げた者はたったの数十人ほどだったといいます。

 

 

典韋はこの決死隊の指揮を任されることになったのですが、

 

決死隊に参加した全員が鎧を二枚着こみ、

身を守る為の盾は持たず、戟を武器として特攻したといいます。

 

 

雨のような矢が典韋らに襲い掛かりますが、

呂布軍の攻撃を防ぐことに見事に成功しています。

 

 

この手柄によって典韋は都尉に任じられることとなりますが、

戦いのたびに結果を残していったようです。

 

曹操にとって典韋はなくてはならない存在へと変貌していったきっかけの戦いだったわけです。

呂布との戦いの際の典韋の逸話

壮絶な戦いを繰り広げる中で、

典韋は返り血や傷から流れる自分の血のせいで、

 

一時的に典韋の視界は奪われることになったようです。

 

 

その際に典韋は近くの味方に向かって次のように言います。

「敵が十歩の所まで来たら教えてくれ!」と・・・

 

そして十歩の位置まで敵が近づいてきた時に、

「十歩です!」と味方の兵士が答えたわけです。

 

 

そして典韋はすかさず、

「五歩の所に来たら再び教えてくれ!!」と言ったのでした。

 

すぐに敵は十歩から五歩の位置まできたので、

近くの味方は急いで「五歩まで敵が来た!」という旨を知らせます。

 

 

これを聞いた典韋は十本以上の戟をまとめて振るい、

五歩まで近づいてきた敵は、まとめて打ち倒されたわけです。

 

この様子を見た呂布の兵士らは典韋を恐れ、曹操は撤退することに成功しています。

典韋の壮絶な最後

曹操が張繍討伐に乗り出した際に、

結果として張繍はあっさりと降伏したわけですが、

 

この時にも典韋は曹操に付き従っています。

 

 

そして曹操は宴席を設けたのですが、

典韋は一尺ほどもする大斧を持ちながら、

 

降伏した張繍一同をにらみつけたことで、

張繍らは顔をあげることすらできなかったそうです。

 

 

 

しかし事件が起こったのはその後だったのです。

 

降伏したはずの張繍が賈詡の助言もあって反乱を起こしたわけです。

 

完全に油断していた曹操近辺を守る兵士は打ち倒されていくんですが、

典韋が守ってた門は誰一人として通ることができなかったのでした。

 

 

しかし他の門から侵入を許したことを知った典韋は、

曹操を守るべく必死で戦い抜くものの・・・

 

数十の傷を負いながら最後は息絶えたのでした。

 

 

 

典韋の最後はすさまじく、

戟を一振りすると敵の矛が十数本砕かれるほどで・・・

 

 

しかし絶え間なく襲い掛かってくる敵の攻撃に典韋もただではすまず、

典韋自身も数重の傷を負ってしまいますが、

 

それでも曹操を逃がすために孤軍奮闘し、

敵二人を両脇に挟んで絞め殺したりもしています。

 

 

そして最後の最後は、

敵勢の中に突撃して数人を打ち倒して絶命したわけですが、

 

典韋は目を大きく見開き、

大きく口を開けて大声て敵を罵って息絶えるという壮絶なものでした。

 

 

三国志演義での描写は、全身に矢を受け、

立ったままで絶命したという感じで描かれていますが、

 

確かにこれも日本の弁慶を彷彿とさせるような感じで壮絶ですが、

実際に正史で描かれている典韋の最後の方が明らかに壮絶な感じになっていると思います。

 

 

 

後に典韋の死を聞いた曹操は、

自分の息子であった曹昂以上に典韋の死を悲しんでおり、

 

陳寿は典韋を漢の劉邦に仕えた樊噲に匹敵する人物だと評価しています。

 

まぁこれに激怒したのが曹昂の育ての親であり、

曹操の正妻であった丁夫人なわけで、離婚の原因になるわけですが・・・

曹操の正室になった三人の女性(劉夫人・丁夫人・卞夫人)

 

 

それから時は流れ、

曹操・曹丕・曹叡・曹芳と時代は流れていくわけですが、

 

243年の曹芳の時代に、典韋の最終的な役職は決して高くもなかったものの、

曹操の廟庭に祀った功臣二十人のうちの一人に数えられています。

 

これはどういうことかというと、

典韋は曹操の墓に合祀されることとなったわけです。

 

 

それほどまでに典韋が命を懸けて曹操を守った最後は、

非常に高く評価されていたということですね。

曹操(孟徳) -中華統一以上のモノを未来へ残した超人-