司馬懿の息子で、代表的な人物と言えば、

司馬師・司馬昭の二人があげられます。

 

 

二人とも司馬懿と張春華の間に誕生していますが、

ここでは長兄である司馬師を見ていこうと思います。

司馬懿 -晋の土台を築いた諸葛亮のライバル-

張春華 -司馬懿の正室で、激しい性格の持ち主-

司馬師(しばし/子元)の嫁探し

司馬師は当たり前ですが、

司馬懿同様に河内郡温県の出身で、実弟に司馬昭がいます。

 

 

司馬懿・張春華の息子として生まれた司馬氏は、

 

立派な容姿の持ち主であり、

沈着冷静な上に先見の明にも長けた人物でした。

 

 

そんな司馬師ですが、

夏侯尚の娘であった夏侯徽を妻に迎え、

 

結果として五人の娘を授かります。

 

 

しかし曹一族側の人間であった夏侯徽と司馬師の間には亀裂が入り始め、

最終的に毒殺されたという記録があったりします。

 

似たような所で司馬懿か司馬師を説得し、

曹一族側に肩を持っていた夏侯徽の殺害を命じたという話もあったりしますね。

 

 

 

そして今度は曹丕の太子四友の一人に数えられた、

呉質の娘(呉氏)を妻に迎えています。

 

ある意味バツイチ婚と言ってもいいでしょう。

 

 

曹丕に気に入られていた呉質の娘ではあったのですが、

 

呉質が貧しい家の出身であったことから司馬懿は、

無理やり二人を引き離してしまいます。

 

「結婚する前に結婚に反対しとけや!」

と全力で思うわけですが・・・

 

 

これでバツ2になるわけですが、

三度目は名家であった羊衜ようどんの娘である羊徽瑜ようきゆを妻に迎えていますね。

 

ちなみにですけど羊徽瑜の実弟は羊祜だったりします。

羊衜・羊徽瑜は知らずとも、羊祜なら知ってる人も多いでしょう。

 

 

そしてやっと司馬懿もこれで妻選びも納得いったようですが、

二人の間に子供が生まれることはありませんでした。

司馬懿のクーデター(縁の下の力持ち)

司馬師の父親である司馬懿は、

曹爽一派を排除すべくクーデターを計画します。

 

クーデター当日になると、

どこからともなく三千人の者達が司馬師に加勢したことで、

 

司馬師は父である司馬懿を助けて、スムーズに朝廷内の制圧に成功しています。

 

 

この三千人の兵士は、

もしもの時に備えて密かに雇っていた者達でしたが、

 

この時の功績によって、

司馬師は衛将軍に任命されています。

 

 

 

見事に司馬懿のクーデターが成功したことで、

これをきっかけとして司馬一族の独裁モードに突入していくことに・・・

 

 

司馬懿が体調を崩して亡くなると、

 

司馬師は撫軍大将軍として、

魏の全権を掌握していくのでした。

 

また同時に録尚書事にも任じられています。

 

 

そして司馬師は勢いそのままに、大将軍・侍中だけでなく、

持節・都督中外諸軍事までも任されるまでになっていますね。

 

これは政治・軍事権限を手中に収めたということになり・・・

完全な司馬師の独裁体制が整った事を意味するのでした。

司馬師の懐

252年に孫権が亡くなった事で、

 

毌丘倹・諸葛誕・胡遵・王昶らに命じて、

呉の東興へ攻めさせたことがありましたが、

この戦いは魏軍の大敗で決着がつきます。

 

 

普通ならば敗戦の罪は、

毌丘倹・諸葛誕・胡遵・王昶らが負う所を、

 

司馬師は「全ての責任は自分自身にある!」として、

他の者を罪に問う事はありませんでした。

 

司馬師のこの姿勢に感服した者達も多く、

これを機に司馬師に心を許す者も増えていくことになります。

反乱×反乱×司馬師の最後

司馬一族が力をつけていけばいくほど、

曹一族に忠誠を尽くす者達にとっては許せない状態が続くことを意味します。

 

そういう者達は、

司馬一族の力を削ぐ方法を考えるのが自然の流れになります。

 

 

その先駆けとなったのが李豊の計画でした。

 

李豊は司馬師を大将軍の位から蹴落とし、

夏侯玄を大将軍に添えるように画策したのです。

 

しかしその計画は事前に司馬師の耳に入ったことで、

二人は処刑されてしまうことに・・・

 

 

ただこれに付け込んだのが司馬師で、

司馬師の牙は皇帝である曹芳にまで及ぶことになります。

 

難癖をつけた司馬師は、

「お前も関わってたんだろ!」

と言わんばかりに曹芳に罪をなすりつけて廃立に追い込んだのです。

 

 

そして新たに擁立されたのが曹髦ですが、

完全に皇帝の権威は地に落ちてしまった事を証拠づけたわけです。

 

 

かつて曹操が後漢の権威を落としたように、

今度は司馬一族が曹一族を・・・

 

まさに因果応報と言えるでしょうね。

 

 

 

ただこれに大きな反発を見せたのが、

毌丘倹・文欽(&文鴦)でした。

 

 

二人は寿春で大規模な反乱を起こしますが、

 

結果だけで言うと、毌丘倹は討たれ、

文欽と文鴦は孫権の元へと逃亡したことで鎮圧されています。

高句麗討伐最大の功労者で、魏への忠誠を貫いた毌丘倹(かんきゅうけん)

 

 

司馬師もこの戦いに出陣していましたが、

左目の下にできたコブの治療を行ったばかりでした。

 

この戦いの中で文欽らを追撃していた最中に、

文欽の息子である文鴦が十数騎を率いて突撃をしてきます。

 

 

この突撃があまりにも激しかったことで、

 

司馬師の左目の傷から、

眼球が飛び出してしまったのでした。

 

 

司馬師は毌丘倹・文欽の反乱を無事に鎮圧はできたものの、

このことが元で司馬師は亡くなってしまいます。

 

亡くなった司馬師の志は、弟の司馬昭が引き継いでいくことになっていきます。

「趙雲の再来」と言われた一騎当千の猛将、文鴦(ぶんおう)