自らの信念を貫いた胡昭の生涯

胡昭こしょうは優れた人物を多数排出した豫州潁川郡の出身で、

黄巾の乱の約20年前である162年に誕生しています。

 

ちなみに胡昭の字は諸葛亮の字と同じ「孔明」であり、

完全に後漢末期の人物になりますね。

 

 

また胡昭の個人伝は立てられておらず、胡昭に関しての記録は、

「魏志」管寧伝の中に胡昭伝として記録が加えられている感じです。

 

胡昭(胡昭伝)以外にも「魏志」管寧伝の中には、

王烈(王列伝)や張臶ちょうせん(張臶伝)に関する記録が収められています。

 

 

胡昭の人望の厚さは広く知れ渡っており、それは袁紹や曹操が求めたほどでした。

 

しかし胡昭は求められながらも、袁紹や曹操に仕えることはなく、

戦乱を避けて各地を転々としていたようです。

 

 

それほどに胡昭が優れた人物ではあることは間違いないのですが、

あまり知られていない人物かなと思います。

 

おそらく息子の胡纂の方が有名かもしれませんね。

 

 

 

そんなこんなで誰にも仕えず、各地を転々とした胡昭でしたが、

最終的に陸渾の山中に隠棲し、自由気ままな生活を送っていたといいます。

 

農耕雨読の日々という感じですかね。

 

 

そんな胡昭ですが、最後まで誰にも仕官することはなかったようです。

「魏」を建国した曹丕も招聘したようですが、当たり前のように失敗していたりします。

 

 

 

正始年間(240~249年)に入ると、

 

趙儼・黄休・郭彝・鍾毓・荀顗・庾嶷といった魏の重臣らが、

次々と胡昭を推薦したこともあり、

 

250年に曹芳が公用車を出して迎えようとしますが、

その直前に、胡昭は89歳でこの世を去っていたといいます。

 

 

また隷書の達人でもあった胡昭は、

鍾繇邯鄲淳 ・韋誕衛覬らと並び称され、高い評価を得ていたようです。

胡昭の気持ちに寄り添った曹操

曹操や袁紹が胡昭を求め、

それに応じなかったことは上でも書きましたが、

 

実際は曹操の招聘に応じて、曹操のもとに出向いたことがあったのです。

 

 

ただこの時に胡昭が曹操に次のように語っています。

「私を大きく評価してくれることは非常に光栄ですが、

私は軍事にしても政治にしても役に立つような人間ではありません。

 

もちろん曹操様には逆らうことはありませんが、

仕えることはなく去らせて頂けませんか?」

 

 

胡昭の言葉を聞いた曹操は、

 

「人にはそれぞれの志があって当然である。

私は胡昭殿の考えを尊重するので、それを最後まで貫きなさい。」

胡昭の気持ちを尊重してあげた逸話が残されています。

 

 

 

曹操によって去る事を許された胡昭は陸渾山に籠り、

農耕雨読の生活を送ることとなったわけですね。

 

 

また素朴な疑問として、

「陸渾山がどこの山なのか?」ということですが、

 

普通に考えると、司隷弘農郡には、陸渾県という県名があるので、

陸渾県にある山と考えるのが自然かなと私は思います。

「素寒貧」の語源になった石徳林

司馬懿との逸話

実は胡昭と司馬懿は交友関係にあったりしました。

 

ある時に司馬懿が刺客に狙われましたが、

刺客の存在を知った胡昭は、涙を流しながら懸命に刺客を説得したといいます。

 

 

司馬懿からすると大変な恩があった胡昭の行動ですが、

胡昭は死ぬまでそのことを司馬懿どころか誰にも告げなかったそうです。

 

ではなぜこの話が今日まで伝わっているのかはかなりの謎ではありますが、

刺客がなんらかで話した逸話が残っているのかもしれませんね。

 

 

これは司馬懿との逸話になりますが、

胡昭はこういうことを当たり前にやるような人物だったこともあり、

 

多くの者達から大層慕われていたといいます。

司馬懿 -晋の土台を築いた諸葛亮のライバル-

孫狼(反乱の首謀者)からも慕われた胡昭

蒼天航路(34巻206P)より画像引用

 

孫狼は弘農郡陸渾県で反乱を起こした人物で、陸渾県の主簿を殺害しています。

 

 

孫狼は民衆の中の一人に過ぎませんでしたが、

 

陸渾県長であった張固が上からの命令を受けて、

兵士を徴兵して漢中へ送らないといけない事情があったことに反発しての反乱でした。

 

つまり一言でまとめてしまいますと、

「漢中まで行きたくないなぁ」という単純な不満だったわけです。

 

ちょうどこの頃の漢中では、

劉備と曹操の激しい漢中攻防戦が繰り広げられていましたからね。

 

 

ただ主簿が殺害されたことに焦ったのが県長であった張固で、

十数人の部下を従え、胡昭の住む地を頼りに避難したといいます。

 

 

その後に孫狼は南下して荊州の関羽の支配下に入り、

 

関羽から印綬を頂戴し、武器の援助を受け、

陸渾県の南方にある長楽亭まで侵攻を開始しています。

 

この時の関羽は印綬のバラマキを沢山行って、反乱を誘っていましたからね。

 

 

ただ孫狼は胡昭に対しては、畏敬の念を抱いており、

 

「胡昭の住む村は襲うことは禁ずる!!」

と事前に部下達に通知をしていたことで、

胡昭が住んでいる地域一帯が荒らされることはなかったといいます。

 

 

またその後の孫狼の乱ですが鎮圧されてしまい、

孫狼自身がその後どうなったのかは記録として残っていません。

 

また樊城・襄陽へと侵攻していた関羽ですが、

呂蒙・陸遜の計略に嵌る形で討ち取られて荊州を失ってしまうのでした。