鮮于輔 -幽州の雄-
鮮于輔は「三国志演義」には登場しない人物になりますが、
正史では「幽州の雄」として活躍した人物になります。
そんな鮮于輔ですが、幽州漁陽郡の出身で、幽州刺史の劉虞に仕えています。
劉虞は漢王朝の東海恭王であった劉彊(光武帝の長男)の末裔であり、
複雑な事情から皇帝にならなかった人物の子孫でもあり、名門中の名門の家柄の人物になります。
しかし犬猿の仲であった公孫瓚との戦いに敗れた劉虞は、
「雨を降らせてみよ。もしできなければ死罪に処す!」
と無茶苦茶な事を言われ、
劉虞も当たり前のように雨など降らすことができるはずもなく、
そのまま処刑されてしまうのでした。
主君(劉虞)の仇討ち
主君が処刑された鮮于輔は、公孫瓚に対して激しい怒りを抱き、
斉周や鮮于銀と共に劉虞の仇討ちに乗り出します。
鮮于輔らは閻柔を烏桓司馬に推し、
公孫瓚と敵対する鳥丸族や鮮卑族の力も借りたことで、数万の軍勢が集まったといいます。
鮮于輔らは公孫瓚勢力の鄒丹(漁陽太守)を攻撃して討ち取り、
四千人にも及ぶ首級まであげる大勝利を収めています。
この時に公孫瓚が鄒丹に対して援軍を送る事はありませんでした。
また袁紹は劉虞の子の劉和を父親の仇討ちの旗頭とする形で、
野戦のスペシャリストでもあった麴義を付けて、鮮于輔らを支援しています。
これによって鮮于輔らの軍勢は十万にも及んだといいます。
そして鮑丘の戦いで公孫瓚に大勝すると、最終的に滅亡にまで追いやったのでした。
ただ鮮于輔や麹義は、公孫瓚が籠る易京攻略には失敗しているのは余談で、
最後は袁紹が地下道を掘って楼閣が崩され、易京の攻略に成功し、公孫瓚は妻子と共に自害しています。
鮮于輔は国人に推戴される形で、
自身の出身であった漁陽太守の代行の立場になるのですが、
この時に公孫瓚の元で力を発揮できていなかった田豫を長史として抜擢しています。
もともと田豫は劉備に従っていた人物で
別れの際に劉備が涙した程に高く才能を評価されていた人物になります。
その後に仕えた公孫瓚は才能ある者達を嫌う性格であったことからも、
田豫は活躍する機会を与えられずにいたのです。
そんな中で公孫瓚が滅亡し、鮮于輔によって抜擢されたという流れになります。
公孫瓚滅亡後は袁紹と曹操が争うようになっていき、
ここで鮮于輔は袁紹に与するべきか、
曹操に与するべきか悩みに悩み、田豫へ相談したといいます。
田豫は鮮于輔の相談に対して
「将来大きく飛躍するであろう曹操に味方すべきである!」と答え、
鮮于輔は田豫の言葉に従って曹操に帰順を決断します。
曹操は鮮于輔の帰順を大変に喜び、
建忠将軍に任命しただけでなく、都亭侯にも封じています。
また幽州六郡を統治させるほどに、曹操は鮮于輔の才能を高く評価したのでした。
袁紹との争いが激化していたタイミングで、帰順した判断も良かったのでしょう。
そして鮮于輔は官渡の戦いに参加するなど、
曹操の冀州攻略に大きく貢献することとなっていきます。
「魏公國勧進奏」&「魏公卿上尊号奏」
建安十八年(213年)5月に、
曹操に魏公に推薦した「魏公國勧進奏」には、
「建忠将軍・昌郷亭侯」として十番目に名を連ねていたりします。
「魏公國勧進奏」には全員で三十名の有力者の名を連ねていますが、
上位十人は次のような感じになっていますので軽めに紹介しておきます。
- 荀攸
- 鍾繇
- 涼茂
- 毛玠
- 劉勲
- 劉若
- 夏侯惇
- 王忠
- 劉展(鄧展)
- 鮮于輔
またそれだけではなく臣下の者達が
曹丕が献帝から禅譲を受けるように勧めた「魏公卿上尊号奏」には、
「虎牙将軍・南昌亭侯」として六番目に名を残していますね。
ここには全員で四十六名の名が記されているのですが、
上記十名は次のようになっています。
- 華歆
- 賈詡
- 王朗
- 曹仁
- 劉若
- 鮮于輔
- 王忠
- 楊秋
- 閻柔
- 曹洪
また黄初五年(224年)には、
雑号将軍ではあるものの輔国将軍に任じられています。
「国を輔ける」なんて意味のある将軍名というのも、
幽州六郡を任され、異民族から国境を守っていた鮮于輔らしい将軍名だなと思いますね。
そんな鮮于輔ですが同年の224年に、
田豫と鮮卑の大人(部族の長)であった軻比能が衝突した際には、
鮮于輔が二人のあいだに入って仲介したりした逸話も残っていたりします。
また劉備死後に劉禅に対して降伏するように
内密の詔を送って投降を薦めていたという記録も残っていたりしますね。
鮮于輔と張邈の逸話
最後に余談ではありますが、
徐邈が曹操の禁酒令を破った際に処罰されようとされたことがありました。
あまりに酒が好きすぎて酒をやめることができなかった感じですね。
その際に徐邈は「聖人に当たった」と意味が分からない対応をしたことで、
曹操の怒りを買ったことがありましたが、これを弁護したのが鮮于輔だったりします。
簡単に言ってしまうと「聖人」というのは造語であり、
酒を止める事が出来なかった酒好きは、清酒のことをそう呼んでいたといいます。
つまりばれないような言葉に変更したわけですね。
それを知らないからこそ禁酒令を破ったばかりか、
意味が分からない返答をした徐邈に対して、曹操は更に怒りを募らせたわけですが、
「酒飲みは清酒の事を聖人、濁り酒の事を賢人と呼ぶようで、
酒を飲んだ事で妄言が出たのだと思われます。」と鮮于輔が庇ったわけです。
これにより曹操は結果として徐邈を罪に問わなかったといいます。