董昭(とうしょう、字:公仁)

董昭は、後漢末から魏の建国期にかけて活躍した政治家です。
軍略家として知られる郭嘉や荀攸とは異なり、
董昭は主として政治・外交・制度設計の面から曹操政権を支えた人物でした。
とりわけ「献帝の許遷都」や「魏公・魏王への昇格」など、
曹操政権の転換点となる重要政策の多くに関与しており、魏建国の立役者の一人に数えられています。
董昭は孝廉に推挙されて官界に入り、県長や県令を歴任しました。
その後、河北の雄・袁紹に仕えます。
界橋の戦いの頃、公孫瓚の勢力が急速に拡大すると、河北各地では動揺が広がりました。
鉅鹿郡でも多くの官吏が公孫瓚への寝返りを考えていましたが、
董昭は袁紹から鉅鹿太守代理を命じられ、巧みな統治と説得によって郡内の混乱を鎮めます。
さらに魏郡で反乱が起こり、太守が殺害される事件が発生すると、董昭は再び派遣されました。
当時の魏郡には数万に及ぶ反乱勢力が存在していましたが、
董昭は武力に頼ることなく離間策を用いて内部対立を誘発し、大規模な流血を避けながら平定に成功しています。
この頃からすでに、董昭は「兵よりも策を重んじる政治家」として高く評価されていました。
曹操との出会い
袁紹は董昭の弟が張邈の陣営に属していたことから、董昭に疑いの目を向けるようになります。
やがて讒言を信じた袁紹は董昭を処罰しようとした為に、董昭は河北を離れざるを得なくなりました。
朝廷への出仕を志した董昭でしたが、その途上で河内の張楊に引き留められます。
この時、曹操は長安方面へ向かうため張楊に通行許可を求めていましたが、張楊はこれを拒否していました。
董昭は張楊に対し、
「曹操はただ者ではありません。今のうちに交誼を結んでおくべきです」
と進言します。
張楊はその言葉を受け入れ、曹操を朝廷へ推薦しました。
董昭がまだ直接曹操に仕える前から、その将来性を見抜いていたことがうかがえる逸話です。
献帝の許遷都を実現
建安元年(196年)、
献帝が長安を脱出して洛陽へ帰還すると、董昭は朝廷に出仕し議郎となります。
当時の朝廷は楊奉・韓暹・董承ら諸将が互いに対立し、極めて不安定な状態にありました。
董昭は楊奉に対し、
「今の朝廷を支えられるのは曹操しかいません」
と説き、曹操を迎え入れるよう働きかけます。
さらに曹操が洛陽へ到着すると、
「天子を安全な許へ移し、そこを政治の中心とすべきです」と献策しました。
曹操はこの進言を採用し、献帝を許へ迎えます。
後の許都政権の成立は、董昭の卓越した政治的判断によるところが極めて大きかったのです。
その後、旧主張楊が殺害されると、
河内一帯の有力者たちは袁紹への帰順を考えました。
董昭は単身で河内へ赴き、説得によって彼らを曹操陣営へ引き入れることに成功します。
また郭嘉や程昱と同様に、劉備の危険性を早くから見抜いていました。
しかし曹操は劉備を厚遇し続け、結果として劉備は徐州で挙兵して反旗を翻します。
董昭の危惧は現実となったのでした。
郭嘉の後任となる
袁氏滅亡後、曹操が袁尚・袁煕を追って北方の烏桓遠征を行った際、董昭は兵站面で大きな功績を挙げます。
平虜・泉州方面の運河整備を提案し、大軍の兵糧輸送を円滑に進めたのです。
この功績によって千秋亭侯に封じられ、
さらに亡くなった郭嘉の後任として軍師祭酒に任命されました。
軍略家として名高い郭嘉の後を任されたことは、董昭に対する曹操の信頼の深さを物語っています。
魏建国の設計&関羽討伐の秘策

董昭最大の功績は、魏王朝成立への道筋を整えたことでしょう。
五等爵制の復活を提案し、さらに曹操が魏公・魏王へと昇る制度的基盤を整えました。
これらはいずれも単なる栄典ではなく、漢王朝から魏王朝への政権移行を円滑に進めるための重要な布石でした。
董昭は剣を振るう武将ではありませんでしたが、
その筆と知略によって新たな国家の骨格を築いたのです。
建安24年(219年)、
関羽が樊城を包囲すると曹操軍は苦境に立たされました。
この時に董昭は、
「孫権が曹操と結んで関羽を挟撃しようとしている事実を意図的に漏らす」
という策を提案します。
この情報は関羽軍の動揺を誘い、徐晃による反撃と孫権軍の背後攻撃を容易にしました。
結果として関羽は敗北し、荊州は孫権の手に落ちることとなります。
魏の重臣として
曹丕が即位すると、董昭は大鴻臚・侍中・太常・太僕などの要職を歴任しました。
また呉との戦争に際しては、
「深入りすれば危険です。早期撤退が賢明でしょう」
と進言し、その見通しは見事に的中します。
曹丕は董昭を称え、
「その計略は張良・陳平にも比肩する」
とまで賞賛しました。
曹叡の時代には司徒に昇り、魏朝を代表する重臣となります。
晩年には軽薄な人物が政界で勢力を伸ばしていることを憂え、朝廷の綱紀粛正を求めました。
そして景初元年(236年)、81歳で亡くなっています。
諡は「定侯」とされました。
董昭は理想家ではありませんでした。
しかし乱世を生き抜く現実主義者として、
曹操政権の拡大と魏王朝の成立に決定的な役割を果たしました。
もし荀彧が曹操政権の「良心」であったならば、董昭はその「設計者」であったと言えるでしょう。
陳寿 は董昭を、「荀攸に匹敵するほど謀略に優れていた」と高く評価しています。
一方で、「徳行においては荀攸に及ばなかった」とも記しています。

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