許褚(きょちょ)
身長8尺(約184cm)で、腰周りが10囲(約120cm)あり、
容姿が巨漢でな上に虎のように猛々しかったのですが、
ぼけーとしていた事も多かった為、「虎痴」とも呼ばれていました。
許褚は若い時に襲ってくる賊を撃退する為に、
人を集めて砦をきずき戦っていたことがありました。
しかし食糧が乏しくなってくると、
これ以上戦い抜くことは難しいと考え、仕方なく賊と和議を結ぶことを決意!
許褚らは牛を差し出すことで、賊からは食糧を受け取るということでしたが、
交換が終わったと思った時、牛が逃げ帰ってくる事態が起こります。
それを見た許褚は、
牛の尾を掴んで賊の元へ引きずっていったそうです。
これを見た賊は驚き、逃げ帰り、二度と許褚の砦を襲う事はありませんでした。
「虎士」の誕生
曹操の支配が豫洲にも広がっていくと、
許褚は砦の兵を引き連れて曹操に帰順しています。
曹操は許褚の容姿を見て、「我が樊噲(はんかい)」といわしめたそうです。
ちなみに樊噲とは漢の始祖である劉邦に長く仕え、
劉邦から信頼された豪傑のことです。
曹操は許褚を非常に評価し、
曹操に帰順したその日に「都尉」に任命しています。
そして許褚と共に帰順した者達は許褚に任され、
許褚が率いた部隊は「虎士」と呼ばれるようになります。
この許褚が率いる「虎士」は、
張繍討伐戦で大きな活躍を見せ、許褚は都尉から「校尉」に昇格しています。
官渡の戦いでの逸話
曹操と袁紹が官渡で激突すると、
許褚にずっと従ってきた虎士部隊にいた者の一部が謀反を起こし、
曹操の首を取ろうとしていた者達がいました。
なんとなく胸騒ぎがした許褚は、
曹操を暗殺しようとしていた彼らを偶然にも見つけ、
その場で皆殺しにしてしまいます。
この話を聞いた曹操は、これまで以上に許褚を大いに信頼するようになり、
曹操の側近としての地位を確立させたのでした。
許褚の直観で救われた曹操の命ですが、
「どんな神経をしてるんだ!」と突っ込みたくなる話です(笑)
潼関の戦い
涼州で韓遂・馬超ら「関中十部」による反乱が起こると、
曹操はこの討伐に向かいます。
この際、西涼軍の猛攻は半端なく、
また曹操が西涼軍を討伐する為に河を渡っていた際、
兵半ばの所でこのあたりの地理を知り尽くした馬超が、
別の場所から河を渡って奇襲をしかけます。
これによって曹操は命を失うほどの危機に陥ってしまいます。
この時に許褚は曹操を小船に乗せ、
曹操へ向けて飛んできた弓を許褚は馬の鞍(くら)を盾にして防ぎ切り、
なんとか曹操を逃がすことに成功しています。
横山光輝三国志(31巻153P)より画像引用
この時許褚がいなければ、曹操は討ち取られていた可能性が非常に高く、
それぐらい危ない状況だったのです。
その後西涼軍と曹操軍の戦いが膠着し、
和議を結ぶ為に両者の代表で話し合う場が設けられます。
この際に曹操を守る為に供をしたのが許褚であり、韓遂・馬超と対談しています。
馬超は、この対談で曹操を殺そうと計画していましたが、
曹操の供をしたのが許褚だと分かると、曹操を殺すことを諦めています。
その後曹操軍がしかけた離間の計により、
西涼軍は仲違いしたことで、曹操は見事に勝利を収めています。
曹操の死&その後の許褚
曹操が病によってこの世を去ると、
許褚はあまりの悲しさから吐血したと伝わっています。
曹丕が曹操の跡を継いでからも許褚は変わらず厚遇され、
許褚が率いていた「虎士」隊からも多くの者達が将軍や都尉・校尉に任命されています。
そして曹丕がこの世を去ると、曹叡が跡を継ぐわけですが、
許褚はそれからまもなくして天寿を全うしています。
三国志演義での許褚の描写
三国志演義での許褚の登場は、
曹操が黄巾族の残党と戦っている時でした。
その時の黄巾族の総大将は、何儀(かぎ)という人物で、
曹操は典韋に何儀を倒してくるように命令します。
その時に許褚が現れ、ささっと何儀を捕縛してしまいます。
これをみた典韋は、何儀を引き渡すように言いますが、
許褚には許褚の考えがあり、これを断ります。
これがきっかけとなり典韋と許褚が一騎打ちを始めますが、決着がつきませんでした。
これを見た曹操は、許褚をなんとかして捕らえて、
味方に引き入れたいと考えるようになったわけですけど、
曹操は罠をしかけることで許褚を捕らえ、
これを機に許褚は曹操に仕えることとなります。
他にも潼関の戦いでは、馬超と許褚が一騎打ちをした話がありますが、
これも決着がついていません。
ちなみに馬超と許褚の一騎打ちは結構有名な話だったりしますが、
あくまで三国志演義での話になるのでご注意を!
また劉備と曹操が漢中で激突した際、
曹操軍への食糧が劉備軍の妨害で届かなかった為に、
武勇に優れた許褚に食糧輸送を任せた事がありましたが、
酒を飲んで余裕をかましていると、
張飛によって食糧を奪われるという許褚の失態も描かれたりもしています。
横山光輝三国志(39巻205P)より画像引用
これを聞いた曹操は、「許褚ほどの剛の者でも・・・」と言ったそうですが、
酒飲んで張飛に襲われたらそりゃ駄目でしょって話です(笑)
許褚の評価
三国志正史の著者である陳寿は、
「許褚が懸命に何度も曹操を守った姿は、典韋と共に漢の劉邦に仕えた樊噲だ」
と絶賛しています。
またそれに注釈を加えた裴松之(はいしょうし)は、
「典韋が曹操の廟庭に功臣として祭られたにもかかわらず、
許褚がその廟庭に祀られなかったのは納得できない」と述べています。
曹操を命がけで守った点を考えると、
典韋が祭られて許褚が祭られなかったのが不思議でしかないです。
逆に典韋が祀られなくて、許褚が祀られるケースの方がまだ考えられるんですが・・・
とにかく曹操にとって、
許褚はいなくてはならない存在だったのは間違いないでしょうね。