武の道を貫いた曹彰(そうしょう)

曹彰は曹操と卞夫人の間に生まれた子で、

曹丕の弟、曹植・曹熊の兄の立ち位置になります。

 

曹彰の生まれた年ははっきり分かっていませんが、

兄の曹丕が187年に生まれており、弟の曹植が192年に生まれている事からも、

曹彰はこの間に生まれた事だけは想像できます。

 

 

そんな曹彰は若かりし頃から、弓馬の扱いを非常に得意としており、

卞夫人の兄弟の中でも明らかに異質な力を持っていました。

 

曹彰は猛獣と闘う事を好んだと正史に記載されており、

こんなことが書かれているのは、前にも後にも曹彰以外いません。

もしかしたら張飛や典韋などを普通に越える程の武の才能を持っていた可能性もあった気がします。

 

 

ある時、曹操が曹彰に対して、

「お前は武勇に優れているが、書物を読んで学ぶことをしない。

武勇だけを追求したとしても匹夫の勇に過ぎず、人に尊敬されるようなものではない!

 

少しは勉強したらどうか!?

とりあえず儒教の教典である詩経・尚書ぐらいは読んでおけ!!」と言った事があったそうです。

 

 

父親からそう言われた曹彰でしたが、

「男子に生まれたからには、前漢の時代に活躍した衛青えいせい霍去病かくきょへいのような将軍になって、

十万の兵を率いて遠征し、蛮族を倒す功績をあげるべきだ!

 

ましてや学問に励んで学者なんかになれるものか!!」

と曹操の気遣いに反して武を追求した考えを持っていました。

 

 

また曹操は自分の子供達にしたいことを尋ねた事がありました。

曹彰が応える順番になった時、曹彰は「武人になりたい!」と迷わず応えました。

 

これに対して曹操は、

「武人になって何がしたいのか?」と返すと、

 

曹彰は、「武具を身につけ、武器を持って戦場へ出向き、

どんな危険な場所であってもひるまず、兵士を率いて最前線で勇猛に戦います。

 

そこで功績をあげれば恩賞を頂けるし、功績をあげられなければ法に従って処罰を受け、

これ以上分かりやすいものはありませんので。」と答えました。

 

曹彰を気質に少し悩んでいた曹操ですが、

これには曹操も大笑いをして、この時から曹彰を一人の武人として認めたそうです。

鳥丸族・鮮卑族の反乱鎮圧

 

218年に郡の烏丸うがん族が反乱の火の手を上げると、

曹彰の夢でもあった大きな戦を任されることになります。

 

これにより曹彰は驍騎ぎょうき将軍代行に任命され、鳥丸族討伐に勇んで向かうのでした。

 

この時に曹操は、「私とお前は普段は親子の関係だが、

戦場に赴けば君臣の関係になる。法に従ってきちんと行動するように!」

と曹彰が無茶をしないように声をかけています。

曹操が曹彰に鳥丸族討伐の総大将を任せた裏事情

 

また、曹丕も以下のような手紙を曹彰に送っています。

「大将となったからには法令を厳守し、征南将軍のようでなければいけない。

 

それから私が跡継ぎに決まったからには、

今回大将に任命されたからと調子にのるなよ。

 

また私を兄として尊重することを忘れるな。

未来の君臣の関係にもなるんだから」と曹丕らしい皮肉を込めた言葉を披露しています。

 

曹丕って本当に器がめちゃくちゃ小さな男ですね。

 

 

ただ、はじめて大きな戦を任された曹彰は気持ちが前に進み、

進軍速度があまりにも早く、後続部隊がついてこれなかったほどでした。

 

この時に曹彰が率いていたのは10万程度の兵士だったと言われていますが、

曹彰についてこれたものは、歩兵1000人・騎兵500人ほどだったと・・・

 

そして鳥丸族が5000の騎馬兵を率いて少兵の曹彰に襲い掛かかります。

 

 

この攻撃に対しても曹彰は一歩もひるむことなく、

参謀であった田豫でんよの協力もあって、撃退に成功しました。

 

曹彰は撃退した兵士を少ない兵で更に追撃し、散々に鳥丸族を打ち破っています。

そしてその追撃は、代郡から二百里(約80km)も離れた桑乾そうかんにまで至ったそうです。

 

この戦闘で曹彰は複数の傷を負いますが、

それによって曹彰のモチベーションが落ちる事もありませんでした。

曹彰の名将たる素質

鳥丸族を追撃して大いに打ち破った曹彰に対して、

これ以上先まで進撃する命令は受けてないと周りの者達は意見したそうです。

 

これらの者達に対して、曹彰は言います。

「敵を打ち破れるときは、単純に勝利だけを見るものだ。

 

そんな大事な時に命令を重視してどうするんだ!

 

これまでに敵を破ったとはいえ、生き残っている敵は遠くに逃げているわけではないし、

今敵を更に追撃すれば徹底的に破ることができる。

 

そんな状況の時に命令を守って、敵を見逃すのは大将のすることではない!

これから更に進撃するが、出発に遅れたものは斬首するぞ!!」

 

これを聞いた兵士達は奮い立ち、大戦果を挙げました。

 

また軻比能かひのうが率いていた鮮卑せんぴ族5万の軍勢は、

曹彰のすさまじい鳥丸族との戦いを見せられて、戦わずして降伏したそうです。

 

 

曹彰はこの戦いで、曹操が期待した以上の働きをし、

反乱を起こした異民族を完全に制圧するという大功績をあげることに成功。

 

そして曹彰は、頑張ってくれた兵士達に対して、

普段の倍以上の恩賞を一人一人に与えて報いてあげています。

 

 

しかし残念な事に、

これだけの名将になりうる素質を持っていたにもかかわらず、

曹操が死んでしまうと、曹彰は二度と用いられることはありませんでした。

 

この鳥丸族や鮮卑族討伐は、

曹彰の一度きりの晴れ舞台であったのは悲しい事だなと思います。

鮮卑族の軻比能に関する正史の記述の矛盾点

曹彰が鳥丸族・鮮卑族を討伐した事は、

「曹彰伝」と「鮮卑伝」に記載が見られることからも事実です。

 

しかしその二つで記載のされ方が異なるので、

ここで紹介してみたいと思います。

 

 

まず「鮮卑伝」には、

「鮮卑族の軻比能が数万の騎兵を引き連れていたが、形勢をうかがっていた。

 

しかし曹彰が戦っていた敵勢を全て撃ち破ってしまったので、

軻比能は戦うことなく曹彰に服従を願い出たことにより北方勢力は全て平定された」

という記載が残っています。

 

 

一方の「曹彰伝」には、次のような記載がされています。

「代郡で鳥丸族が反乱を起こし、鮮卑族の軻比能がこれを助太刀して魏へ攻め込んだ。

 

しかし曹操は曹彰を驍騎将軍に任命して迎撃を任せられると、

曹彰は鳥丸族・鮮卑族はとことん打ち破られた。

 

そして鮮卑族の軻比能は、万里の長城を越えて逃げて行った。

 

 

実際正史の「伝」によって内容い違いがあるので、

どちらにか書かれている事が正確なのかは不明ですが、

 

上では曹彰伝に記載されている事を優先して記述しています。

 

おそらくですけど、三国志正史を書いた陳寿も、

はっきりとした資料を集める事ができなかったのかもしれませんね。

 

まぁどちらにしても曹彰の見事な働きによって、

鳥丸族・鮮卑族が暴れていた北方の平定できたことは言うまでもありません。

曹操に将軍として認められた曹彰

曹彰は鳥丸族・鮮卑族の反乱を鎮圧し、

北方制圧を約3か月で平定するという大功績をあげました。

 

この報告は、当時漢中で劉備と戦っていた曹操の元にも知らされます。

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曹操は漢中を奪われた上に、劉備が徹底的に守りに徹していたことで苦戦しており、

曹彰に漢中に急いでくるように指示をだします。

 

そして曹操は劉備に対して、

「黄髭がくるから待ってろよ!」といったそうです。

 

黄髭とはもちろん曹彰の事で、曹彰が黄色の髭をしていたことが理由です。

 

曹操が苦戦する中で劉備に対してそういうことを言ったのは、

鳥丸族・鮮卑族の反乱平定を短期で成し遂げた曹彰を大きく評価したからでしょうね。

 

 

また曹彰の立場から言うと、異民族相手に見事な結果を出し、

 

今度は父である曹操を助けるために将軍として漢中へ呼び出された事に、

曹彰は疲れなど吹っ飛ぶぐらいに嬉しい事だったのでしょう。

 

昼夜問わず急いで漢中へ軍を率いて向かいますが、

曹操は漢中から完全に撤退をし、曹彰が長安に着いた時には曹操も長安まで戻っていました。

 

漢中で戦う事は叶いませんでしたが、

曹彰は曹操に異民族討伐の成果について大絶賛されます。

 

しかし曹彰は、「私が手柄を立てる事ができたのは、皆のお陰です」

と謙遜し、自分の功績を自慢する事はありませんでした。

 

曹彰の言葉を聞いた曹操は、

曹彰の人としての成長ぶりも含めて大きく喜んだといいます。

 

 

ただ曹彰が控えめに受け答えした理由は、

曹彰が漢中に向かう際に、曹丕がいた鄴を通った際に、

 

曹丕から「大きな功績をお前はあげたが、

父にこれから会うからといってつけあがるでないぞ!」と言われたのはちょっとした裏話です。

曹操の死で曹彰の運命が大きく変化

 

曹操は曹彰と長安で会ってから少しして洛陽へ戻ります。

 

この時曹彰を連れて戻ることはせず、

曹彰に越騎将軍を代行させ、長安の守備を任せました。

 

洛陽へ戻った曹操ですが、2年も経たずしてこの世を去ります。

 

 

曹操の後継者は曹丕に決まっていましたが、

曹操は死期を悟ると、曹彰に自分の元に急いで来るようにいっていたそうですが、

曹彰が到着する前に曹操は亡くなってしまいました。

 

そして曹彰が洛陽に到着すると、

「先王の璽綬はどこいなるか!?」と尋ねたそうです。

 

これに対して賈逵が、

「跡継ぎは曹丕様に既に決まっています。

璽綬のある場所を曹彰様が問い合わせることは筋違いですよ」と注意され、

 

曹彰はそれを聞いて引き下がったそうです。

自分にできる最善の方法で魏の為に尽くし続けた賈逵

 

しかし、曹彰の言い分としては、

これは自分自身が曹操の跡継ぎになりたかったわけではなく、

曹操が曹丕ではなく曹植を跡継ぎにしようとしており、

 

その為に、父である曹操が曹彰を洛陽に呼び寄せたというものでした。

 

しかしこの話を曹彰が曹植にしたところ、

袁紹遺児の骨肉の争いを例に出して断ったそうです。

曹植の「七歩の詩」の真相は!?

 

実際曹操が最後どのように考えていたかは不明ですが、

 

曹彰が曹植を補佐してくれれば、

曹丕を廃嫡にして曹植を後継者にしてもよいのではないかという考えが、

もしかすると曹操は死を間近にして考えた可能性も否定はできない気がします。

 

実際に曹操から急いで洛陽にくるようにと曹彰が言われた事も事実ですから。

その後の曹彰

曹丕が曹操の跡を継ぐと、

曹彰の異民族討伐の功績も含めて、曹彰は五千戸を加増され、

これまでのと合わせて一万戸に加増されています。

 

ただその代わりに軍権を取り上げられてしまいました。

 

 

曹彰としては武将になることが小さい時からの夢であり、

曹操から命じられた異民族討伐でそれがやっと叶ったというのに、

 

その夢を曹丕に警戒されて、奪われてしまったわけです。

 

 

それ以後、中牟王・任城王を歴任しますが、

兵士を率いて戦場へ赴くことはありませんでした。

 

そして曹操が死んで3年の月日が経った223年に、

曹彰は洛陽に赴いて、曹丕に自分を用いてくれるように願い出ます。

 

しかし曹彰の気持ちは曹丕に伝わることはなく、

曹彰は何故かこの洛陽でそのままなくなってしまいました。

 

あまりにも急すぎる死であったことから、

曹丕が毒殺しただの、曹彰は失意のうちに自殺したなどと言われていますが、

その真相は分かっていません。

 

とりあえず若くして、洛陽で急死したという事実だけが残っている形です。

曹丕と曹彰・曹植・曹熊の関係

曹丕は、後継者争いに長らく悩まされていた人生だっただけに、

 

卞夫人から同じく生まれた兄弟にも関わらず、

曹彰・曹植・曹熊の誰も信用する事はありませんでした。

 

また曹丕が曹操の後を継いでからは、

常に三人の兄弟を監視させ、兄弟間の接触でさえも固く禁止したそうです。

 

 

卞夫人からしたら4人ともお腹を痛めて生んだ子なだけに、

曹丕が他の兄弟への仕打ちに対して間違いなく心を痛めていた事でしょう。

 

ちなみに卞夫人は230年にこの世を去っているので、

この時には既に曹彰と曹熊は母よりも先にあの世へ旅立っていたことになります。

曹操の正室になった三人の女性(劉夫人・丁夫人・卞夫人)

 

曹操の息子達は優れていた者達が多かっただけに、

 

もし曹丕が寛大な心で兄弟達をうまく用いるほどの器量があったならば、

司馬一族に滅ぼされる事もおそらくなかった気がします。

 

もしかすると天下を統一することもできたかもしれません。