三国志の主人公と言えば、
間違いなく魏(曹操)と蜀(劉備)と並んで名前があがるのが呉(孫権)だと思います。
孫権の父であった孫堅、孫権の兄であった孫策、
どちらも志半ばで短命でしたが、
孫権は70歳まで生きて天寿を全うした人物でもあります。
目次
孫権 仲謀(そんけん ちゅうぼう)
孫権は呉の初代皇帝となった人物で、
孫堅の息子であり、孫策の弟にあたり、弟には孫翊・孫匡がいます。
江東制覇に成功した兄の孫策でしたが、
孫策に処刑された許貢の客将によって襲われた時の傷がもとでなくなってしまいます。
孫策が臨終の際に遺言として、孫権が跡を継ぐことになるのですが、
「戦いという面を見ればお前は私にはかなわないが、
国を維持するという面で見た場合、お前の方がはるかに優れている。」
という言葉を孫権に送ったのは有名な話です。
この時の孫権は、わずか19歳でした。
赤壁の戦い(曹操VS孫権・劉備連合軍)
孫策の跡を継いだ孫権でしたが、孫策が見込んだ通り、
魯粛・陸遜・諸葛瑾・徐盛・朱桓・歩隲・顧雍など多くの優れた人物を登用していきます。
魯粛は孫策とも会ったことはありますが、
きちんと周瑜からの推薦で仕えたのが孫権という形ですかね。
そんな孫権に待ち受けていたのが赤壁の戦いです。
曹操が袁家を降したことで、南方攻略に乗り出し、
荊州を下した勢いで孫権が治める江南へと軍を進めてきたからです。
この時、周瑜・魯粛ら主戦派と張昭ら降伏派が大きくぶつかります。
最終的に魯粛案が通り、曹操に敗北して追われていた劉備と同盟を結び、
曹操にあたる案が採用されたのでした。
そして劉備・孫権連合軍が曹操と赤壁でぶつかるわけですが、
周瑜・程普に軍を任せ、黄蓋の苦肉の計と火攻めにより勝利をおさめています。
曹操軍の中では疫病が流行っており、
被害が大きくなる前に曹操は撤退したとも言われていますね。
荊州争奪戦①
赤壁の戦いでは、表向きは劉備・孫権連合軍とはなっていますが、
実際曹操とほとんど戦い繰り広げたのは孫権軍でした。
赤壁の戦いに勝利した孫権は、勢いそのまま荊州を手に入れようと動くんですが、
曹仁が守る江陵を落とすのに一年近くかかってしまったのでした。
その隙に自分の領土を持ちたい劉備は、
荊州南部であった劉度(零陵)・金旋(武陵)・趙範(桂陽)・韓玄(長沙)を攻め落としてしまいます。
これに激怒したのが孫権でした。
しかし孫権は頭を切り替えて、一緒に益州侵略を劉備に提案するのですが、
次に益州を手に入れたいと思っていた劉備は孫権の誘いを断ります。
ちなみにこの時に劉備は孫夫人(孫尚香)を妻にめとっていますね。
ただ周瑜の天下二分の計を実現させるためには益州侵略は欠かせないもので、
劉備の返事に関係なく、孫権は周瑜を総大将に任じて攻め込ませようとしました。
しかしここで不幸にも周瑜が曹仁との戦いの際に負った傷がもとで死んでしまいます。
これによってかねてより劉備を気に入っており、
天下三分の計を唱えていた魯粛の考えが採用されることになり、
孫権が奪った荊州領地の一部を割いて、更に劉備へと一時的に貸したのでした。
もしもこんなベストと言えるタイミングで周瑜が死んでいなければ、
おそらくですが天下二分の計は実現しており、
曹操・劉備・孫権による三国時代は到来しなかった可能性は高いと思われます。
そういった意味でも劉備は強大な運を持ち合わせていたのでしょうね。
ちなみにこれと同時期に孫権は歩隲を交州へと攻め込ませています。
そして長らく交州を治めていた士燮が孫権に降伏したことで、
交州の地を手に入れることに成功したのでした。
ちなみにこの時、劉備と昔馴染みであった蒼梧太守の呉巨という人物がいましたが、
人間性的にも問題があると判断され、歩隲によって斬り殺されています。
第一次濡須口の戦い
212年に入ると、曹操が大軍をもって濡須口へと攻め込んできます。
この時の曹操の兵力は40万前後板とも言われており、
208年の赤壁の戦い以上の兵力だった可能性があるほどで、
この時に曹操に備えたのが呂蒙でした。
呂蒙は濡須塢を築いて、曹操軍を迎え撃つことに・・・
この戦いで濡須塢が十二分に力を発揮したことで、
戦いには大勝するのですが、
孫権が全幅の信頼を寄せていた董襲の船が転覆して水死したりもしていますね。
ちなみにこの戦いで甘寧がたったの百人を率いて奇襲を行い、
大戦果をあげたのがこの濡須口の戦いだったのは余談です。
劉備・孫権の間に大きな亀裂が発生
劉備が劉璋の治める益州を奪取し、
曹操・劉備・孫権によって国が大きく三つに分かれる事になります。
劉備は益州に攻め込む前に、
益州を取得出来たら借りていた荊州を返すという約束をしていたのですが、
劉備は孫権との約束を簡単に反故にしたわけです。
これに孫権は激怒し、劉備と孫権の間をとりもっていた魯粛も我慢の限界がきてしまいます。
そして劉備と孫権の間で戦いが勃発!
激化しようとしていた中で話し合いが設けられますが、
これが有名な「単刀赴会」ですね。
これは劉備によって、
荊州を任されていた関羽と魯粛が話しあうというもので、
最終的に関羽が魯粛の正論の前にて、こてんぱんに言いくるめられてしまいます。
関羽がただ一人で魯粛の待つ敵陣を訪れ、
魯粛の話をうまくかわして優位に話し合いを進め、ゆうゆうと帰還していくというのは三国志演義だけの話です。
実際は真逆の状況でした。
「単刀赴会」での話し合いの結果、
荊州の一部(長沙・桂陽)を孫権に返したことで険悪なムードが一旦解消されることとなります。
荊州争奪戦②
219年に関羽が襄陽・樊城の曹操領へ侵攻を開始すると、
関羽は戦いを優位に展開していきました。
関羽は樊城を包囲し、援軍に駆け付けた于禁を捕虜とするなど大戦果をあげます。
しかしここで于禁らを捕虜にしたことで更なる食糧が必要となり、
その際に関羽が同盟国であった孫権の領土から略奪を行ったそうです。
関羽と孫権の認識不足もあったんではないかと思うんですが、
正史には関羽が孫権領から略奪を行ったとあります。
そして関羽と孫権の間柄はこれまでの経緯もあってか完全に亀裂が入ってしまったのでした。
孫権は呂蒙・陸遜らに命じて背後が手薄になっていた荊州を攻めさせます。
そして傅士仁・麋芳らが裏切ったことで荊州を呉に占領されてしまったわけです。
これを聞いた関羽は樊城包囲を解き、急ぎ荊州に退却するものの、
荊州は呉によってきちんと治められている状態でした。
これにより荊州に家族を置いていた関羽の兵士らの多くが逃亡してしまう始末・・・
最終的に昔の古城であった麦城に逃げ込みますが、
兵力的にも圧倒的に不利であった関羽はなんとか逃亡する道を選択するも、
関羽の動きを事前に予測していたこともあり、関羽は捕らえられてしまいます。
そして孫権は関羽を処刑し、荊州制圧に見事に成功したわけですね。
ちなみに関羽の死から少しして曹操はこの世を去り、
曹丕が跡を継ぐわけですが、後漢から禅譲を受けた形で魏を建国しています。
夷陵の戦い(孫権VS劉備)
関羽が討たれたことで大きなショックを受けたのが劉備でした。
旗揚げ時より苦楽を共にしてきた関羽が殺されたことで、
多くの部下が反対する中で呉討伐を決意します。
この時に諸葛亮はあえて反対はしなかったといいます。
諸葛亮の思惑としても、天下を統一するには荊州が必須の土地でもあったからです。
漢中方面からと荊州方面からの侵攻できる体制が必須と考えていました。
そういう感じで劉備は荊州を奪い返すべく攻め込みますが、
陸遜の火計により大敗北を喫してしまいます。
なんとか白帝城に退却した劉備でしたが、
この敗戦の心労により、それから少しして劉備は亡くなってしまったのでした。
ただ劉備は死ぬ間際に孫権に手紙を送っており、
孫権から鄭泉を派遣して両国の友好回復に努めていますね。
三方面の戦い(孫権VS曹丕)
劉備と孫権が荊州でぶつかったことで、曹丕は呉への侵攻を決意します。
勝利したとはいえ、呉が疲労していることにかわりがなかったからですね。
孫権と曹丕は同盟関係にはあったものの、
孫権が人質として皇太子であった孫登を差し出さないなどの経緯もあり、
同盟をなかったことにし、呉討伐を決意したわけです。
この時に曹丕は本気で孫権を倒すべく三方面から呉に攻め込んでいます。
だから三方面の戦いというんですけどね。
- 濡須口(曹仁)
- 洞口(曹休・張遼・臧覇)
- 江陵(曹真・張郃・徐晃・夏侯尚)
任された人物はそうそうたる面子であったにもかかわらず、
孫権は魏の攻撃を防ぎ切って、なんとか戦いに勝利しています。
これにより孫権は劉備・曹丕と立て続けの侵攻を見事に防ぐことに成功したのでした。
数々の侵攻から呉を守り通してきた孫権は、
229年に皇帝を名乗り、正式に「呉」を建国します。
ちなみにですが、孫権が台湾や日本を攻めようとしていたのは、
孫権が皇帝になった翌年にあたる230年と言われています。
衛温・諸葛直に1万の兵を預けて、
「夷州・亶州を攻めさせた」といった記載が残っているからです。
夷州は今の台湾、一方の亶州が日本だと言われています。
ちなみにこの侵略計画には陸遜も大反対していましたが、
その忠告も全く聞かないありさまで、
侵略は普通に失敗して、衛温・諸葛直は孫権によって処刑されてしまいます。
迷君に成り下がった晩年の孫権
晩年の孫権は夷州・亶州へと攻め込もうとしたり、
苛烈な性格で多くの人々を死に追いやった呂壱を重用したりと、
これまで数々の人材を見出してきた孫権とは思えないようなことをやりはじめます。
呂壱に関しては、
皇太子であった孫登などからの上奏もあって最終的に処刑されているんですが・・・
完全に孫権がおかしくなっていくのは、孫登の死からでした。
33歳の若さで逝った孫登に代わって、孫和を皇太子に添えたまではよかったものの、
孫覇も対等に可愛がった為に孫和派と孫覇派で国中が分裂してしまいます。
これを「二宮の変」というんですけど、
この後継者争いで、多くの優れた人物が巻き込まれてしまいます。
魏蜀から呉を守り続けた陸遜もその一人ですね。
しかし「二宮の変」は思わぬ形で決着してしまいます。
孫和を皇太子から排除し、孫覇を処刑して、
幼かった孫亮を皇太子に置いたわけです。
ちなみにですけど、この時に皇太子から外された孫和の子が、
呉の最後の皇帝になった孫晧になりますね。
また同時期に交州で大規模な反乱がおこったりもしています。
巨大な乳房を持っていたことで知られる趙氏貞が暴れた反乱ですね。
この反乱は趙氏貞が処女であるという話を聞いて、
裸になって趙氏貞が照れたところを一気に襲って打ち破ったという話が残ってたりします。
そんなこんなで呉を長らく治めてきた孫権ですが、253年に天寿を全うしています。
まぁ最後の終わり方が少し勿体なかった気もしますが、
それでも兄の孫策から引き継いだ領地を更に拡大させ、
魏蜀を相手に対等に渡り合ってきた孫権は、偉大な人物であったことは間違いないですね。
そんな孫権を陳寿は以下のように評価しています。
「苦汁に耐え忍んで計略を用いた姿は、かつての勾践(越王)のようである。
偉大な人物であると言えるだろう!
ただ孫権は嫌味をいうことも多く、
晩年は優れた人物を数多く処刑してしまったのは残念であった」と・・・