三国志演義で劉備と義兄弟の契りを結んだり、
正史の方でも寝食を共に過ごす中で兄弟のようになっていった関羽や張飛は有名です。
ただ劉備が「お前の為なら自分の首が刎ねられても問題ない」
と思えるぐらいに信頼できる相手と出会っていたのを知ってる人はあまり多くないんではないかと思います。
ここでは劉備が「刎頸の交わり」を結んだ牽招という人物の生涯を見ていきます。
目次
楽隠との出会いと別れ
牽招が若かりし頃、楽隠を師と仰いで教えをこうていました。
そして楽隠が何苗の長史に任じられると、
弟子であった牽招も何苗に従って何苗に仕える事になります。
「何苗とは誰ぞや!?」
という人もいるかもしれないので、
軽く何苗について説明しておくと、
何進の従兄弟にあたる人物ですが、血のつながりはありません。
何進がまだ屠殺業を生業にしていた時に、共に仕事をしていた人物でもありますね。
その後、何進の妹(異母妹)である何氏(何皇后)が霊帝の妻になると、
何進や何苗もまた官僚となり、大きく出世したわけです。
それからの何進は優れた者達を多く招いており、
何苗も何進に競ってか優れた者達を招くようになります。
この時に招かれた一人が牽招の師であった楽隠だったということです。
しかし霊帝の死によって宮廷内が混乱すると、
大将軍であった何進と宦官との間で激しい対立が起こります。
この争いで大将軍であった何進が殺され、
何進を殺害した宦官らが惨殺されて共倒れになってしまいました。
この時に何進と対立して宦官側の立場にいたのが何苗でしたが、
何進が殺害されると、宦官ともどは袁紹・袁術らに殺害されまくり、
何苗は呉匡・董旻の兵によって斬られてしまいます。
その際に楽隠もおまけ程度に殺害されてしまったわけです。
楽隠の遺体は弟子たちによって棺に納めらて
楽隠の故郷へと運ばれることになったのですが、ここで賊に襲われるという不幸が続きます。
牽招以外の弟子達は、殺害されるのを恐れて逃亡する始末。
しかし牽招一人は棺に抱きつき、見逃してくれるように泣いて頼んだといいます。
そんな牽招の姿に感心した賊は、牽招を見逃してあげたようです。
劉備との出会い「刎頸の友」
牽招が命がけで師の棺を守ってからというもの、
「義」を大事にする牽招の名は次第に広がっていく事となり、
そんな中で劉備と出会い、
若かりし二人は意気投合し、「刎頸の友(刎頸の交わり)」と呼び合ったようです。
劉備も任侠気質な正確であった為に、
おそらく自分の命を捨てて棺を守ろうとした牽招と引き合う所があったんだと思います。
ただこの時の劉備と牽招は予想さえしなかったでしょうね。
後に牽招は魏に仕官する事を・・・
なにより劉備が皇帝になって蜀(漢)を建てて魏と敵対することなど・・・
そして劉備の跡を継いで二世皇帝となった劉禅が治める蜀を、
牽招の子である牽弘が鄧艾に従って蜀を滅亡させてしまうだなんてことを・・・
「刎頸の友」の由来(藺相如・廉頗)
春秋戦国時代、趙という国を支える二人の人物がいました。
一人は藺相如、もう一人は廉頗という人物で、
「刎頸の友」を語る上での主人公になる二人でもあります。
藺相如は秦が趙の弱みに付け込んで、
国の宝であった「和氏の璧」をくれるように迫ります。
「和氏の璧」の話はここでは省きますが、
簡単に言うと「完璧」という言葉の語源となった財物ですね。
この時に藺相如は体を張って「和氏の璧」を守り切ったり、
また戦によって和議を結ぶ際は、
会見や宴会中に趙王と秦王と対等に渡り合わせたことにより出世した人物でした。
※秦と趙を比較した場合、勢力的に趙が明らかに格下。
しかしこれを気に入らなかったのが廉頗という将軍で、
口先一本で出世した藺相如の悪口を言いまくっていました。
それを知った藺相如は廉頗を避けるようになったのですが、
ある時廉頗将軍の馬車と偶然にも道で出会いそうになったので、
急いで道影に隠れる事がありました。
この藺相如の振舞いを見て、
藺相如に仕えていた者達はこれに愛想をつかした事を藺相如に伝えます。
その際に藺相如は、
「趙が今持ちこたえているのは、廉頗将軍と自分がいるからだ。
だからこそ二人が仲が悪いという事は趙にとってもよくないし、秦に知られるのも良くない。
だから私は廉頗将軍を避けていたのだ!」と話したそうです。
横山光輝史記(5巻63P)より画像引用
この話が知れ渡り、廉頗の耳に入ると、
廉頗はこれまで自分が悪口を言っていたことに対して、
「これまですまなかった。藺相如の気が済むまで私を鞭で打って下さいませ!
そして私は貴方の為ならば、喜んで自分の首を差し出しましょう」と謝罪したと言います。
これに対して藺相如は、
「廉頗将軍がいるからこそ、趙の国は持ち堪えているのです。
私も将軍の為ならば喜んで自分の首を差し出しますよ」と返しました。
横山光輝史記(5巻68P)より画像引用
お互いの為にお互いの首(頸)を刎ねられてもいいというところから、
「刎頸の友」「刎頸の交わり」という言葉が誕生しています。
刎頸の友(張耳・陳余)
ちなみに秦が天下統一を果たした後に、
劉邦と項羽が争う時代に突入していくわけですが、
この時代の移り変わる時に、張耳と陳余の二人が、
藺相如と廉頗の真似をし「刎頸の交わり」を結んだことがありましたが、
秦の大群に城が包囲されたことがきっかけとなって二人の友情は壊れ、
「刎頸の交わり」なんてどこ吹く風状態に・・・
横山光輝史記(11巻67P)より画像引用
その後の張耳は劉邦側に、陳余は項羽側につき、
最終的に韓信・張耳らによって攻められた陳余は捕らえられて処刑されてしまいます。
藺相如と廉頗の「刎頸の友」というのは、
あくまで趙という国が前提にあってのものでした。
それに対して張耳と陳余は、
二人の中で「国の為」というのが前提になかったという点が大きな違いでしょう。
その為に、張耳と陳余の「刎頸の交わり」は簡単に崩れてしまったのです。
劉備と牽招の二人が「刎頸の友」だったというのは、
「漢」という国が前提にあっての「刎頸の友」だったのか・・・
それともそれほど大きな意味を持たない張耳と陳余のなれ合いのような関係であったのか・・・
どちらだったのかは本人たちにしか分かりませんね。
袁紹→袁尚→曹操へと流れ着く
牽招と劉備が「刎頸の交わり」を結んでからしばらくの時間が経った頃、
牽招は当時勢いがあった袁紹へと仕官します。
この時に牽招は督軍従事を拝命し、・烏桓突騎を任されたことで、
少なからず烏桓族(鳥丸族)をまとめ上げるような役割を担っていたと言います。
それ以外に袁紹の元では、これといった活躍は見受けられません。
そして袁紹が202年に死亡すると、
袁紹遺児の袁譚・袁尚によって後継者争いが勃発し、
そこを曹操につけこまれて、袁家は衰退していく事となります。
牽招は袁紹死後は袁尚に仕えていましたが、
袁尚が中山郡へ追いやられてしまい、
袁尚の元へ戻るに戻れないようになった牽招は曹操へと降伏。
上地図では袁尚が追いやられた後の元袁紹領地だった場所を袁譚の領地として色分けしていますが、
実際は曹操と袁譚の領地が入り乱れている状態でした。
とにかく曹操や袁譚の支配下をかいくぐって、
中山郡へ行く事は不可能だという判断だったのだと思います。
その後の牽招は、生涯曹家に仕える事となったわけです。
蘇僕延の説得&韓忠との論説
曹操が袁尚を撃破する事に成功した裏側には、
曹操と袁譚の同盟関係によるところもありました。
袁譚と袁尚が完全に仲違いしたところを曹操は利用したのです。
そして袁尚は袁譚との同盟関係を反故にし、袁譚を滅ぼすべく袁譚を攻撃!
この時に袁譚は袁紹の時代より交流があった鳥丸族の蘇僕延に援軍を送ってくれるように要請し、
これに蘇僕延は応じ、袁譚に五千騎の援軍を送ることを決定します。
それを知った曹操は蘇僕延を説き伏せる為に、
白羽の矢を立てたのが袁紹に仕官していた時に鳥丸族との関係を持っていた牽招でした。
牽招は蘇僕延が拠点としていた遼西郡の柳城へ向かうわけですが、
そこには遼東半島で独立勢力を誇っていた公孫康配下であった韓忠と偶然にも遭遇!!
公孫康は自らの勢力拡大の為に、
勝手に単于の印綬を渡すために韓忠を派遣していたのでした。
一言付け加えておくと、黄巾賊の韓忠とは同姓同名であるが別人です。
この時に蘇僕延は混乱したように
「前に袁紹が単于に取り上げてくれていたが、
袁紹亡き後には公孫淵が単于の印綬をくれようとしている。
そして今度はお前を派遣して、曹操が私を単于にしてくれると言っている。
一体誰が正統の使者なのか全くわからん」と牽招に問いかけます。
これに対して牽招は、
「袁紹が勅令をもって単于に任命する権限があったのは事実ですが、
今はそれが曹操に交代する事になったというそれだけのことです。
ましてや遼東という辺境にいる公孫康が単于への任命するなど片腹痛い事です」と返したのです。
牽招の言葉を聞いた韓忠が激怒し、
「我が遼東には軍勢は百万をひかえ、扶余・穢貊も味方してくれている。
今現在世の中は乱れに乱れていることを考えれば、
公孫康殿の右に並ぶものはいないと言っていいでしょう。
曹操だけが正統というのは言い過ぎにもほどがある!」と間に入ります。
これを聞いた牽招も激怒!!
「曹操殿は天子を奉戴して賊を討伐しているのだ。
お前ら遼東の者達はただ命に従わずに好き勝手しているだけではないか!
過信するにもほどがあるぞ!!」
そう叫ぶと、牽招は韓忠を捕らえて殺そうとします。
この様子に一番驚いたのは蘇僕延で、l
牽招に韓忠を許してくれるように嘆願するほどだったといいます。
蘇僕延のとりなしもあって、韓忠は殺されずに済むものの、
蘇僕延は袁譚に援軍を送る事をやめたそうです。
袁譚は孤軍奮闘するも力の差は歴然で、
曹操に普通に敗れて討ち取られてしまいました。
そして曹操は残された袁尚を追い詰め、
最終的に公孫康の元に辿り着いたまではよかったのですが、
曹操に恐れをなした公孫康の裏切りによって、袁尚は殺されてしまいます。
そして袁尚の首は曹操の元へと送り届けたことで、
袁家は滅んでしまう事になりました。
その後の牽招
それから約10年後にあたる215年に、
曹操は漢中の張魯を降すわけですが、牽招はこの時にも漢中討伐に付き従っています。
漢中の張魯が降伏すると、
その後しばらく平定後は中護軍として漢中に留まったようです。
その後に曹操が亡くなって曹丕が跡を継ぐと、
牽招は使持節・護鮮卑校尉を任されて昌平に駐屯し、
そこで牽招は鮮卑などの異民族の監督を任されることとなりました。
そして牽招は異民族(特に鮮卑)らにも寛大な心で接していたようで、
多くの者が魏への帰順を願い出たといいます。
その後、右中郎将雁門太守を任される事になった牽招は、
軻比能・歩度根・泄帰泥らを離間の計を用いて仲違いさせ、
牽招は歩度根・泄帰泥を味方につけて軻比能を打ち破ったこともあったようです。
曹丕が亡くなり曹叡が跡を継ぐと、
牽招はそれまでの功績を評価され、関内侯の爵位を賜ります。
その後も田豫と協力して再び軻比能を破ることに成功したりするのですが、
226年に天寿を全うし、その生涯に幕を下ろしています。
ちなみに田豫がまだ子供だった頃に劉備に仕えており、
劉備が徐州へ赴いた際は従っていたほどでした。
劉備もそんな田豫を高く評価してお、母の死によって仕方なく別れる事になった際も、
「お前と大事を成せないのが残念だ!」と劉備に言わしめたほどでした。
劉備と深い関係があった二人であるからこそ、
もしかすると益州に国を打ち立て皇帝を名乗った劉備について、
二人は懐かしんで熱く語っていたのかもしれませんね。
そんな牽招を陳寿は、
「牽招は義に厚い人物であり、牽招の功績は甚だしいものである。
また牽招の才能は太守程度に収まるものではなく、もっと大きな役目を任せれるに足る人物でもあった」
と高い評価をしています。