諸葛亮亡き後に「北伐」を行った人物として、
真っ先に名が挙がるのが、間違いなく姜維だと思います。
「姜維の北伐」は、
結果として蜀漢の国力を大幅に低下させ、
「蜀滅亡へとつながった」と言われることも多いですが、
そんな姜維の生涯について見ていきます。
目次
若かりし頃の姜維(伯約)
姜維は天水郡冀県の生まれですが、
「姜」は天水郡の四姓とも言われているほどの姓であり、
明らかに天水郡で力を持っていた豪族の家系だったと言えると思います。
ちなみに「姜」「閻」「任」「趙」の四姓が、
天水郡の四姓と呼ばれている姓になります。
このことからも分かる通り、
三国時代以前から天水郡で力を持っていた一族になりますね。
ただ姜維が幼い頃に父親が異民族討伐で戦死してからは、
母親に育てられたようで、劉備の幼い頃と似たような境遇だったことでしょう。
そんな姜維ですが、
「鄭玄の学問を好んだ」
という風に「正史」に記録が残っています。
ここを軽くスルーするわけにもいかないので書きますが、
姜維が生まれたのが202年です。
一方数千人の弟子がいたともされている鄭玄は、
200年に亡くなっています。
姜維が生まれた年には既に鄭玄は亡くなっているので、
「直接学べる」といったことはありえません。
このあたりは記録に残っていないことから推測するしかありませんが、
おそらく姜維の父親である姜冏が鄭玄に学んだという可能性は普通にあると思いますね。
鄭玄の元には遠くから数千人の者が教えを請いにきたと書かれていますし、
姜維の父親もその一人であった可能性はあると思います。
同じ屋根の下で生活するわけですから、
「子が親の影響を受ける」というのは当たり前でもあったと思いますし・・・
おそらくこの可能性が一番高いとは思っていますが、
他の可能性としては姜維がたまたま鄭玄の学問を知る機会があり、
個人的に鄭玄の教えが書かれた本などを集めて、
独学で勉強したという可能性もありますが、この説は個人的にはしっくりきませんね。
そんな姜維でしたが、天水郡に召し出されて「上計掾」に任じられており、
これは地方政治の状況を朝廷へ定期的に報告するといったのが仕事内容になります。
父親が異民族との戦いで戦死してしまったことが、
理由だったのかは分かりませんが、
将軍になることを望んでいなかったようで、
天水郡は姜維を州に推薦して「郎中」の役目を任されたのでした。
「郎中」とは簡単に行ってしまうと、将来の官僚候補ですね。
しかしその後、半ば強制的に呼び戻されて
「中郎(参天水郡軍事)」に就任しています。
この役職は天水郡の兵士を指揮することができるものでした。
ただ姜維が任命されたのは太和元年(227年頃)なので、
もしかしたら諸葛亮の調略が始まっていた頃だという事を考えると、
「太守であった馬遵とは別の者に兵の指揮をさせよう」
という裏事情があったのかもしれませんね。
その際に姜維が丸め込まれていた可能性も・・・
太守が一般的には兵を率いるわけですから、
姜維にそんな権限が与えられるのは不思議な感じがします。
そんな背景がある中で228年に諸葛亮が北伐を開始されるわけですね。
諸葛亮の北伐&蜀漢への帰順
228年に諸葛亮が「北伐」を行うのですが、
この時に天水太守であった馬遵は、
姜維・梁緒・梁虔・尹賞らと共に巡察を行っていたようです。
諸葛亮の「北伐」を協調するように、
馬遵が治める天水郡だけでなく、
諸葛亮の調略により南安郡・安定郡でも民衆の蜂起がおきていました。
この時に馬遵は、
姜維・梁緒・梁虔・尹賞を信用せず、
天水の中心都市であった冀県に戻らず、上邽城に立て籠もったといいます。
※「魏略」によると雍州刺史であった郭淮の巡察に馬遵が同行しており、
上邽城へ入城したのは郭淮に従ったからだとあります。
そして馬遵を追った姜維・梁緒・梁虔・尹賞でしたが、
上邽の城には入城させてもらえず、仕方なく姜維らは冀県へと戻ります。
しかしここでも既に馬遵からの伝言が飛んでいたのか分かりませんが、
姜維らが冀県にも戻ることができず、
諸葛亮に帰順を決意したといった流れでした。
※「魏略」では姜維は冀県の民衆に歓迎され、諸葛亮への使者となっています。
諸葛亮の第一次になる「北伐」は、街亭の敗北により失敗に終わりますが、
姜維らは諸葛亮に従って漢中へと引き上げていますね。
諸葛亮は姜維の才能を高く評価し、
倉曹掾・奉義将軍に任じるという好待遇で迎えたのでした。
その後は蜀漢政権内でも活躍を続けた姜維は、
諸葛亮の五度にわたる「北伐」でも活躍を続け、中監軍・征西将軍にまで出世しています。
諸葛亮&魏延の死
234年に諸葛亮が、
五回目の北伐時に五丈原で没します。
諸葛亮が亡くなったことで撤退を試みたわけですが、
魏延が殿を務める予定でしたが従わなかったことにより、
楊儀と姜維が魏延の代わりを務めます。
なんとか漢中向けての撤退に成功するのですが、
その際に魏延が桟道を焼き落として楊儀らの撤退を遅らせ、
その隙に「楊儀が反逆した」という旨を劉禅に上奏しています。
また一方の楊儀も「魏延が反逆した」と劉禅に上奏して漢中で激突したのでした。
最終的に魏延は馬岱によって斬り殺されていますが、
この事からも分かる通り、諸葛亮の死とともに国内は乱れたわけです。
そして諸葛亮の棺を持って成都へ帰還し、
その年に姜維は右監軍・輔漢将軍へと昇進し、
「平襄侯」の爵位まで授けられています。
「蒋琬の北伐」実現せず
諸葛亮死後は、諸葛亮の遺言に従う形で、
蒋琬が「第一人者」として引き継いでいくこととなります。
蒋琬は水路(漢水)を使った「北伐」を考えており、
諸葛亮の行った北伐とはまた違ったやり方で、諸葛亮の「北伐」を引き継ごうと考えていました。
一方で姜維の力を評価した蒋琬は、
涼州と縁が深い姜維を北方対策にあてています。
しかし蒋琬が描いた北伐は、
「漢水を利用して上庸方面を奪う」というもので、
どちらかというと「東伐」といったほうがすっきりしますね。
しかし蒋琬の北伐には、
「費禕をはじめ多くの者達が反対した」といいます。
反対した理由は敗北した際の退却がままならない事から、
「漢川を利用した北伐は危険すぎる」という意見からでした。
そんな中で蒋琬は病にかかり、それが悪化したことで、
蒋琬の北伐が実行されることはありませんでした。
そして病状が回復しないまま蒋琬が亡くなると、
費禕が蒋琬の跡を引き継ぎ、国政を担っていくこととなるわけですが、
姜維も蒋琬の死を機会に、衛将軍にまで昇進しています。
餓何・焼戈・伐同・蛾遮塞の反乱&費禕の死
涼州は異民族が多く滞在しており、
韓遂の時代からも分かる通りに反乱が絶えない地域でした。
そんな涼州で羌族である
餓何・焼戈・伐同・蛾遮塞が反乱を起こし、
涼州の豪族であった治無戴が力を貸したことで、
この反乱は更に大きなものへとなります。
これに呼応(利用)する形で姜維は北伐を起こすものの、
基本的に「費禕は北伐反対派」であったこともあり、
姜維に対して指揮できる軍勢がほとんど与えられなかったことから、
戦いを挑むものの大した戦果を挙げることもなく、撤退を余儀なくされていますね。
また蜀漢軍の撤退が反乱軍にも知らされると、
餓何・焼戈・伐同・蛾遮塞・治無戴の反乱軍の士気が大きく低下し、
郭淮によって鎮圧されてしまうのでした。
多くの者達が討死する中で生き残った蛾遮塞・治無戴は、
姜維を頼って蜀漢へと落ち延びていったようです。
その後も姜維に対して授けられた兵士は一万人のみで、
費禕の制御により姜維の北伐は抑えられている状況が続きます。
あくまで費禕の考えは、
「丞相(諸葛亮)でさえ成功できなかった北伐が、
能力が劣る我々が簡単に成功するものではない」という考えをもっており、
その点からも国力低下をなるだけ防ぐ狙いがあったわけですね。
そんな二人の関係でしたが、
費禕が魏の降将であった郭循によって殺害されると、
姜維が完全に実験を握っていくこととなります。
姜維の北伐&蜀の滅亡
これまで費禕の反対により北伐を我慢してきた姜維でしたが、
費禕の死によって足かせが完全に外れてしまいます。
ここから幾度となく姜維の北伐が行われていくこととなるのですが、
姜維の北伐は涼州を手中に収めることを目的にした北伐が多かったのが現状でした。
また最初こそ魏に勝利したこともありましたが、
決定的な所で撤退を余儀なくされることが多かったの現状だったのですが、
256年の北伐で、鄧艾に大敗してしまったことを皮切りに、
姜維に逆風に一気に吹き荒れることとなります。
姜維の失態を理由に、
劉禅に対して姜維の諫言をする者達が増えてきたからでですね。
その中でも劉禅お気に入りの黄皓と姜維の関係は険悪で、
黄皓が諸葛瞻・董厥などを巻き込んでいくと、
姜維の立場はかなり怪しくなってきます。
最後まで北伐で大きな戦果をあげなかった姜維は、
結果的に「姜維の北伐」は国力を大幅に低下させ、
黄皓などの佞臣の台頭もあり、そこを魏につけこまれることとなります。
そして263年に鄧艾・鍾会が漢中に攻め込まれ、
その上で姜維は戦いに敗れて漢中を失ってしまったのでした。
そればかりか鄧艾率いる別部隊が、
陰平道より綿竹関への侵入してしまいます。
鄧艾は江油城をあっさりと攻略すると、綿竹関の制圧にも成功します。
ちなみに綿竹関を守っていたのは、
諸葛亮の息子であった諸葛瞻でありましたが、普通に討死していますね。
そして成都へと迫ってきた鄧艾に、
劉禅は降伏したことで蜀は滅亡したのでした。
姜維は最終的な要害であった剣閣で魏の軍勢を抑えていたものの、
鄧艾の別部隊によってやられてしまったという感じですね。
綿竹関が落城したことと聞いた姜維は、
剣閣から急ぎ成都方面へと向かったそうですが時既に遅く・・・
ちなみに余談ではありますが、
蔣斌・王含・柳隠の三名は、
漢中の前線ともいえる城を最後まで守り通していますね。
- 漢城を守る蒋斌(しょうひん)
- 楽城を守る王含(おうがん)
- 黄金城を守る柳隠(りゅういん)
また呉との国境である永安城の羅憲もまた、
蜀漢滅亡時にどさくさに紛れて領地切り取りに呉が侵攻してきた際に
最後の最後まで羅憲が守り通したりもしています。
蜀漢滅亡してしまった中でも、
最後の最後まで懸命に戦った者達がいたことは覚えておきたいものですね。
姜維の最後の策略
劉禅降伏後の姜維は、鍾会の軍門に降っています。
鍾会は姜維を敵ではあったものの、姜維を高く評価しており、
姜維の帰順を歓迎したのでした。
そんな鍾会と姜維には次のような逸話が残っています。
鍾会が姜維に対して、
「降伏するのが遅かったではないか!?」と問うと、
「これでも早すぎたぐらいだ!」
と涙を流しながら返したことに、
姜維を更に高く評価したといったものですね。
それは鍾会が移動する際には、
「姜維を同車に乗せるほどの厚遇ぶりだった」といいます。
そんな中で姜維は鍾会の中に眠る野心に気づき、
その野心を利用して「蜀再興」を成し遂げる為に動き出します。
姜維の作戦は鍾会を焚きつけて、成都攻略の第一人者である鄧艾を捕らえ、
成都を掌握して益州で再度独立するというものでした。
鍾会もその気になって次のような言葉を言ったとされていますね。
「まぁ天下統一ができなかったとしても、
劉備ぐらいにはなれる」と・・・
ただ姜維の考えはうまくいった暁には、
「鍾会を殺害して、再度劉禅を君主に添える」
といったものでした。
しかし計画は失敗に終わってしまい、
姜維・鍾会が殺害されたことで幕を下ろしたのでした。
この時二人は切り刻まれたわけですが、
その際に姜維の腹から取り出された胆は、
「一升枡ほどの大きさだった」と言う話が、
裴松之が注釈をつけた「世語」に書かれてあります。
姜維の評価する者&否定する者
幾度となく北伐を行ったことで、
蜀滅亡の戦犯として扱われたりすることも多い姜維ですが、
諸葛亮は、
「涼州で最高の人物である!」
と姜維に対して非常に高い評価を残しています。
また呉との関係を修復したことで知られる鄧芝は、
人付き合いが非常に下手で、
人を褒めることが少なかった人物でした。
しかしそんな鄧芝でさえ、
「姜維を非常に高く評価していた」といいます。
それだけでなく、劉禅と司馬昭の逸話で有名な郤正は、
「姜維は大将軍にまで出世した人物にもかかわらず、
質素な生活を送り、私財を貯め込むことは一切なかった。
そればかりか姜維は学問に励み、
国の為を想って生きた人物で模範とすべき人物の一人である」と・・・。
また「三国志」に注釈をつけた裴松之は、
姜維や郤正について肯定的な意見を述べています。
蜀漢を滅ぼした鄧艾にいたっては、
「姜維を稀代の英雄である!」と述べたり、
一方の鍾会も姜維に対して、
「魏の名士であった諸葛誕や夏侯玄も
姜維には全然に及ばない!」と高く評価していたりします。
このように姜維に対する多くの評価がある中で、
廖化・張翼・譙周は
「姜維の北伐」を非難していたこともまた事実であったりしますね。
最後に「三国志」を著した陳寿は、
「姜維は文武に優れた人物だったが、
国力を顧みない北伐を繰り返したことで
蜀の衰亡を早めてしまった」と姜維を評価しています。