幼少の頃の鍾会(しょうかい)

鍾会は鍾繇しょうようの末子としてこの世に生を受け、

母親は、鍾会が立派な人物に成長してくれるように熱心に指導します。

 

その指導は、鍾会が4歳の時から半端ないものだったらしく、

この年齢で既に「孝経」を暗唱できるほどになっていたといいます。

 

それ以後も「論語」「詩経」「春秋左氏伝」「尚書」など、

様々な事を鍾会に教え込んだ結果、鍾会は多くの論文を著しました。

 

そんな幼少期の鍾会を見た蒋済しょうさいは、

「並々ならぬ人物である!」と鍾会を非常に高く評価。

曹操に「漢の蕭何(しょうか)に匹敵する」と称えられた鍾繇

 

 

また幼い頃の鍾会の話として次のようなものが残っています。

 

ある時に鍾会と兄である鍾毓しょういくが、

父であった鍾繇の酒を盗んだことがありました。

 

鍾繇は二人の様子を寝たふりをして見守っていたそうです。

その酒を兄の鍾毓は拝礼して飲んだのに対し、弟の鍾会は拝礼をせずに飲みました。

 

 

これを隅で見ていた鍾繇は鍾毓に「何故拝礼して飲んだのか?」と聞くと、

「お酒は拝礼して飲むものだからです」と答え、

 

一方の鍾会に対して「何故拝礼せずに飲んだのか」と尋ねると、

 

「この酒は盗んだもので、人の道に外れた行為であり、

拝礼もなにもあったものじゃないでしょう」と答えたといいます。

二十歳での仕官

鍾会の父親は鍾繇であり、関中方面を任されたりと曹操軍の中で活躍し、

後を継いだ曹操の子である曹丕の元でも三公である大尉をも任されています。

 

曹叡の時代には名誉職であったが、

三公の上に位置する太傅にまで昇り詰めました。

 

魏の中で高い功績を誇っていた鍾繇の子であった鍾会も、

曹芳の代になった頃、20歳にて期待されて採り立てられています。

 

仕官してからの鍾会は順調に出世していきました。

 

毌丘倹・文欽らが反乱を起こした際も、

続いて諸葛誕が反乱を起こした際も参謀として参加して手柄をあげています。

 

 

鍾会は人を貶める事も多く、司馬師・司馬昭らは鍾会の才能を認めるとともに、

鍾会のことを心の隅で警戒する事を怠ることはありませんでした。

 

実際竹林の七賢であった嵆康けいこうを処刑に追い込んでおり、

同じく竹林の七賢であった阮籍げんせき嵆康同様に処刑しようと企みますが、

これは阮籍によって防がれています。

白眼視、阮籍(げんせき)

 

自分の為ならば平気で人を貶める鍾会に対して、

 

鍾会の友人であった傅嘏ふかは、

「鍾会は野心が半端ないからもう少し控えめに生きた方がいい」

と忠告を受けた事もあったそうです。

蜀討伐の大功績

 

なんといっても鍾会の最大の功績は、鄧艾と共に命じられ蜀討伐でしょう。

 

263年に蜀討伐を鄧艾と共に命じられ、漢中へ攻め込みます。

順調に蜀軍を剣閣まで追い込みますが、姜維・廖化らの抵抗が激しく苦戦。

 

 

その際に鄧艾が剣閣の西側を通り奇襲をしかけたことで、

成都の劉禅は降伏して、蜀は滅亡してしまいます。

 

この鄧艾の侵攻で綿竹関を守っていた諸葛瞻・諸葛尚親子であったり、

黄権の息子であった黄崇らも討死。

⑲蜀(蜀漢)の滅亡

 

これにより劉備・曹操(曹丕)・孫権と長らく続いてきた三国時代に幕が下りたわけです。

 

ちなみに魏から蜀へ亡命し、車騎将軍まで上り詰めた夏侯覇は、

鍾会の事を非常に高く評価しており、

 

「将来、鍾会は蜀・呉にとって災いを招く可能性がある」と語った話が残っています。

張嶷が夏侯覇を「親友」と認めた三年越しの絆

鍾会の独立

 

蜀討伐を果たした鍾会と鄧艾でしたが、

 

剣閣の別ルートを通って成都の劉禅を降伏させた鄧艾が、

大将であった鍾会よりも大功績を上げたのは誰の目から見ても明らかでした。

 

鍾会は、大将として蜀を滅ぼした功績として三公であった司徒に任命されますが、

内心鄧艾に手柄を持っていかれた事が許せずにいました。

 

 

この時、劉禅が降伏した後に剣閣で抵抗していた姜維は、

鍾会の軍に仕方なく降っており、

 

そんな姜維は鍾会の野心に目をつけ、

鍾会ををたきつけて蜀の再建を果たそうと画策。

 

 

鍾会は、姜維におだてられた形で、

 

「ここで独立を果たせば天下を取ることができるかもしれない。

最悪天下を取れずとも劉備程度にはなることができる!」

 

と考え、姜維と協力して独立する事を決心!!

 

 

まず手始めとして、独立に邪魔であった鄧艾を無実の罪で殺害。

 

その後に鍾会は独立を果たそうとしますが、

これが見事に失敗に終わって姜維ともども殺されてしまいました。

 

鍾会は一世一代の勝負に出たわけですが、見事にそのかけに敗れたわけですね。

既に見抜かれていた鍾会の野心

司馬昭が鍾会・鄧艾に命じて蜀討伐をさせた際に、

鍾会について注意喚起していた邵悌しょうていという人物がいました。

 

邵悌は司馬昭に対して、

「鍾会に10万以上の兵を与えて蜀討伐をさせようとしていますが、

鍾会は独り身であり、人質にできるような者達もいません。

 

また鍾会は野心家なので、それだけの兵を与えるのは危険すぎますよ」と進言。

 

 

これに対して司馬昭は、この邵悌の言葉に対して、

「お前が心配しているようなことは既に頭の中にある。

 

そんなことよりも蜀をこのままにしておくことの方が危険であるし、

私と同じ考えを持っている鍾会ならば、必ず蜀を滅ぼしてくれる。

 

その後、もし鍾会が反乱を起こしたとしてもそれはうまくいかないのが目に見えている。

どうせ鍾会は蜀とまとめきれないだろうし、魏から連れてきた兵士達は魏に帰りたがるだろうから!」

と笑って返したと言います。

鍾会謀反時の司馬昭と邵悌の逸話

蜀を滅ぼした後、鄧艾が謀反を起こしたと鍾会から報告を受けた際、

司馬昭は鄧艾討伐の為に自ら兵を率いて出陣しようとしました。

 

司馬昭に対して邵悌は、

「鄧艾の5・6倍の兵を持っている鍾会に鄧艾を討伐させればいいだけでは?」

といった事がありました。

 

 

これに対して司馬昭は、

「蜀討伐前に鍾会を信用してはいけないと言った言葉を忘れてしまったのか?

 

その可能性を考えて、私自ら討伐しに向かう事にしたのに、

それでも討伐に行くのに反対するのか?

 

ただ私自身は、人をむやみあたりに疑っている姿を見せたくないので、

鍾会を疑っているなど絶対に誰にもいうなよ!

 

鍾会が反乱を起こさなければそれでいいし、

実際鍾会が反乱を起こしたとしても、私が長安まで軍を進めた頃には全て終わってるはずだ。」と語りました。

 

鍾会は魏に対して反乱を起こすものの、司馬昭が予想した通りになり、

その反乱はあっさり失敗して無残に殺害されてしまいます。

陳寿の鍾会への評価

 

陳寿が鍾会に対して、

「優れた策略家であったのは間違いないけれども、

 

あまりに大きな野心を抱いたばかりに、あまり後のことを考えずに反乱を起こしてしまった。

その結果、殺害されてしまった」と評価しています。

 

 

ちなみに「三国志演義」の版本にはいくつもあるんですが、

その中でも一番有名なのは毛宗崗もうそうこうの版本です。

 

その毛宗崗は、鍾会について次のように言っています。

「秘密は漏れるし、反乱を起こすまでに手間取ってしまった。

反乱に失敗して死んだのは当然の話。

 

もしも反乱がうまくいっていたとしても、

姜維に利用されていただけの鍾会は、姜維によって殺害されていただろう。

 

結局反乱が成功していても失敗していても、

鍾会は死から免れる事はできなかっただろうなぁ」と・・・。