「玄学」の礎を作った人物として、
まっさきに名が挙げられるのが曹操の養子になった何晏ですが、
何晏の良きライバルであり、
何晏同様に「玄学」の創始者となったのが王弼になります。
王弼(おうひつ)の一族
王弼は若かりし頃から聡明な人物で、
王業の息子として生まれてきたわけですが、
ちなみに王弼の祖父であった王凱は、
劉表の娘を娶っていることからも、劉表とも繋がりがある人物でもあります。
また王凱は王粲と同じ一族であり、
中央が乱れた際には共に劉表の治める荊州へ避難したこともあります。
その際に容姿端麗であった王凱を気に入った劉表が、
自分の娘を王凱に嫁がせたという感じですね。
ちなみに王粲は王凱と違って、
容貌が優れていなかったこともあって、
劉表は娘婿の候補から外した感じなわけでして・・・
ただ才能では王粲の方が圧倒的に優れていましたけどね。
董卓に愛された名士である蔡邕に、
「才能では敵わない!」とまで言わせた人物ですし、
曹操政権下で活躍するようになった際には、
鍾繇・王朗といった者達に高く評価された記録が残っていたりしますからね。
「老子」を溺愛した王弼
王粲や王凱が三国時代の序盤の人物だとすると、
王弼は比較的末期の人物になりますね。
王弼は、「老子」を非常に好んでいたといいます。
むしろ王弼=老子といってもいいほどに・・・
これがきっかけとなって、
「玄学」の創始者になっていくわけですけどね。
そんな王弼ですが、
鍾会と並び称される程の才能の持ち主だったといいます。
ちなみにですけど、並び称されただけでなく、
王弼と鍾会は友人関係だったりします。
王弼と何晏
王弼は何晏と交友があったこともあり、
曹爽政権化のメンバーの一人として活躍していくことになります。
ちなみに何晏は、王弼の才能を高く評価していたこともあり、
二人は何度も議論しあうことがあったようです。
一方で王弼もまた何晏の才能を認めていたようで・・・
ある意味二人は相思相愛だったと言っていいかもしれませんね。
ただ王弼は敵を作りやすい性格だったようで、
人を馬鹿にしたような態度の時も多く、多くの者達から恨みを買っていました。
とりま曹爽政権に追従する者達は、
そういう性格に難がある輩が本当に多いイメージですね。
王弼・何晏に関する面白い逸話
南北朝時代に編纂された「世説新語」には、
二人に関する面白い逸話が残っているので紹介してみたいと思います。
ある時に何晏が「老子」に注釈を加えたことがありました。
何晏はその注釈を持って王弼を訪ねたのですが、
王弼は何晏の注釈を絶賛して、
自分が注釈していた老子を捨てたといいます。
「これほどの注釈を加える事ができる何晏殿こそが、
天と人の在り方について語ることができる人物である!」
という言葉を残しつつ・・・
そして王弼は天・人について語る代わりに、
道と徳について語ったといいます。
まぁ一言で言ってしまえば、王弼は何晏の才能には
及ばないと認めたということですね。
ただ一方で、次のような話も残っていたりします。
何晏が老子に注釈を加えていた最中に、
王弼のもとを訪ねたことがあったといいます。
王弼から老子の注釈を聞いた何晏は、
王弼の注釈の素晴らしさに、
ただただ頷くだけだったといいます。
そして何晏は老子に注釈することを断念し、
道と徳について語る方に切り替えたとのことで・・・
今度は何晏が王弼には及ばない内容となっており、
一つ目と二つ目の内容は完全に真逆のものになっていますね。
まぁ二人が高い才能の持ち主であり、
良いライバルであったということを言いたかったのだと思います。
王弼のその後&最後
何晏も一目置いた王弼の注釈ですが、
訓詁学のように漢字に拘ったようなものではなく、
「無を以て本と為す」
という思想に重きをおくといったものでした。
他にも色々な注釈の中にヒントがあったりします。
「万物万形、其れ一に帰す。
何に由りて一を致す。無に由るなり。」
などもそうですね。
とにかく王弼の考えとしては、
「無とは道」「道とは無」
であることが万物の根本にあると主張しています。
だからこそ政治というものは
自然のままに行うのが良いという考えだったようです。
そんな王弼ですが、司馬懿のクーデターによって、
曹爽一族が処刑された際に免職に・・・
一方の何晏は曹爽側の主要人物の一人であったことから、
処刑されてしまう事になります。
免職させられた王弼ですが、
249年にハンセン病を患ってしまったことで、
24歳の若さでこの世を去っています。
短い人生ではあったものの、王弼は多くの著物を残しており、
以下のものが王弼の代表作と言ってよいでしょうね。
- 老子道徳経注
- 老子指略
- 周易注
- 周易略例
- 論語釈疑