「世説新語」とは?

「世説新語(せせつしんご)」は、

 

後漢末から東晋までの人物の逸話を集めたもので、

劉義慶りゅうぎけい(宋の時代)が編纂しています。

 

宋の時代で書かれたもので一番有名なのは、

後漢についての事や倭についての記載がある「後漢書」ではないでしょうか?

 

「後漢書」は宋時代の范曄はんようによって編纂されています。

 

「世説新語」は、その「後漢書」と同じ宋時代に書かれた書物になります。

 

「世説新語」には三国志時代の人物の逸話も多く収められており、

ここでは鍾繇の子である鍾毓しょういくと鍾会について書かれているところを抜擢して紹介してみたいと思います。

鍾毓と鍾会が曹丕に謁見した時の逸話

 

鍾毓と鍾会が幼い頃に曹丕に謁見した話ですが、

この話は三国志演義にも登場していますし、知ってる人はいるかもしれません。

 

ただこの話は完全に作り話だと思います。

 

理由は鍾会が生まれたのは225年だと分かっていますし、

曹丕が226年6月になくなっているので年齢的にさすがに無理がありますしね。

 

三国志演義では、

鍾毓が8歳で、鍾会が7歳の時の話として書かれています。

※実際はもっと年齢は離れています。

 

 

まぁそれを前提にこの話を紹介すると、

 

曹丕は鍾繇に二人の賢い息子がいることを知って、

鍾繇に連れてくるように命令しました。

 

鍾繇は曹丕に言われるまま、鍾毓と鍾会を連れてきたんですが、

兄の鍾毓は汗を沢山かいてるのに対し、弟の鍾会は汗一つかきませんでした。

 

 

曹丕は、まず鍾毓に「何故そんなに汗をかいているのか?」と尋ねると、

鍾毓は「曹丕様に謁見し、緊張のあまり汗が止まりません」と回答。

 

また一方曹丕は、鍾会に対して「何故汗一つ出さないのか?」と尋ねると、

鍾会は「曹丕様に謁見し、緊張のあまり汗が引っ込んじゃいました」と回答したそうです。

 

 

鍾毓は緊張のあまりの部分を「戦戦惶惶」とし、

鍾会は緊張のあまりの部分を「戦戦慄慄」と答え、

 

二人の韻を踏んだ回答に曹丕は噂通りの子供達だと感心したわけですね。

真面目に生き抜いた鍾繇の子、鍾毓(しょういく) 〜これ以上ないタイミングで天寿を全うした男〜

父親の酒を盗み飲みした時の逸話

 

鍾毓と鍾会の父親である鍾繇が昼寝をしている時の話です。

 

二人は父親の酒を盗んで飲んでみようと計画し、

酒を盗んで飲んだことがありました。

 

鍾繇はふと目を覚ましたが、そのまま子供たちの様子を見守ります。

 

そうすると兄である鍾毓は、拝礼してから酒を飲んだのに対して、

弟の鍾会は、拝礼せずにそのまま酒を飲みました。

 

 

その様子を見ていた鍾繇は、腰を起こして二人に問いかけたそうです。

 

まず鍾毓に対して、

「何故拝礼してから飲んだのか?」と尋ねると、

 

鍾毓は「酒は拝礼してから飲むべきものだからです」と回答。

 

 

一方の鍾会に対して、

「何故拝礼せずに飲んだのか?」と尋ねると、

 

鍾会は「そもそも酒を盗むこと自体悪い事なのに、

酒を飲むときだけきちんと拝礼して飲むのもおかしなことだからです」と回答。

 

鍾毓と鍾会の二人の性格を的確に表現した逸話になってます。

蜀を滅ぼした功績者であり、魏からの独立を夢見た鍾会

夏侯玄が捕縛されていた時の逸話

 

254年に李豊や張緝ちょうしゅうが大将軍であった司馬昭を排除して、

夏侯玄を大将軍にしようと計画を企てますが、計画が漏れた事でこれは失敗します。

 

この時に夏侯玄・李豊・張緝の三名が捕縛された時の話です。

 

 

鍾毓は廷尉であり、夏侯玄を取り調べたのですが、

なんでか分からないけど、弟の鍾会が取り調べの場所にわざわざ登場します。

 

そして捕らえられている夏侯玄に対して、

「夏侯玄よ、処刑ほぼ確定みたいだけど元気にしてるかい?」みたいな感じで話しかけたみたいです。

 

ちなみに夏侯玄と鍾会の面識なんて全くありません。

 

 

これに対して、夏侯玄は鍾会を一切スルーして、

罪を素直に認めたといいます。

 

あくまで夏侯家は魏の中の名門中の名門であり、

鍾会はそんな名門出身の夏侯玄に対して皮肉をたっぷりこめて話しかけたのでしょうね。

 

一方の鍾毓はというと、夏侯玄の死に際して自然と涙が溢れたそうです。