陳登(ちんとう)
陳登といえば、徐州の陳珪の息子で、
呂布滅亡の一端を担った人物です。
陳登は徐州を治める君主が変わるたびに、
陶謙→劉備→呂布→曹操と仕えていますが、それぞれに重く採りたてられました。
陳登の出番は、ほとんどが呂布が関わった時代の印象が強く、
それ以降のイメージがない人が多いと思いますが、
今回の陳登の話は、徐州を曹操が治めるようになってからの話です。
個人的に孫策に恨みを持っていた?
陳登の親族に陳瑀(ちんう)という人物がいました。
この陳瑀が袁術と孫策から揚州刺史の地位を奪われ、
揚州から追い出される事件が起こった事により、袁術や孫策に対して警戒するようになります。
勿論親族が袁術や孫策にとって、やりたい放題されたのだから、
陳登もこの二人に対して良い感情を抱くわけもなく、嫌っていたようです。
厳白虎の残党を扇動
呉郡を根城にしていた山賊に厳白虎(げんはくこ)という者がいましたが、
破竹の勢いで揚州進出をしていた孫策に敗れていました。
親族をないがしろにされた仕返しかは実際分かりませんが、
陳登は厳白虎の残党に金をばらまいて、反乱を起こさせています。
反乱は結果的に鎮圧されますが、これが陳登の仕掛けた扇動だと知ると、
孫策は怒り、陳登が治めていた広陵へ攻め込みます。
これにより二人の戦いが始まります。
孫策VS陳登
孫策との兵力差は大きく、まともに戦っても勝ち目がないと判断した陳登は、
城に立て籠もり、防戦一方を決め込みます。
しかしこれは陳登の作戦で、
陳登からの攻撃がない事に油断していた孫策軍に、
陳登は夜襲をしかけ、見事に打ち破っています。
孫策は、後にもう一度陳登の守る広陵へ攻め込んでいますが、
この時も陳登の伏兵のより敗北しています。
ただ1度目と違い、2度目の時は孫策は指揮をとっていなかったとか、
孫策が死去した跡を継いだ孫権だったとも言われています。
2度目が孫策と孫権のどちらだったのかは定かではありませんが、
兵力差があった孫策を1度は確実に打ち破ったのは紛れもない事実です。
陳登って戦いが上手いイメージはありませんが、
実際は戦上手だった可能性は高いと思います。
劉備も陳登の事をかなり高く評価していましたし。
それに破竹の勢いで揚州地域を制圧した孫策を
運だけで撃退することなんて簡単にできるはずもないわけですから。
孫家討伐を曹操に進言する
曹操に仕えてからの陳登は、
揚州の大半を支配していた孫策や孫権を討伐するように何度も進言しています。
しかし、そこまで曹操は手を回すことができず、
陳登が39歳で死去するまで実現する事はありませんでした。
後に孫権との戦いをする度に、
「陳登が進言していたことをもっと早く行動に移せていれば・・・」
と言っていたそうです。
結局曹操が生きている間に、
揚州を支配する事は叶いませんでした。