于禁(うきん、字:文則)-曹操軍随一の規律を誇った名将-

于禁は兗州泰山郡鉅平県の出身です。

後漢末、黄巾の乱が勃発すると、同郷の名士であった鮑信が義兵を募りました。

于禁はこれに参加し、乱世へと身を投じます。

 

済北相であった鮑信は、反董卓連合にも参加した人物で、

早くから曹操の才能を高く評価していたことでも知られています。

 

于禁は鮑信の配下として各地を転戦し、武勇と統率力を磨いていきました。

青州黄巾賊との戦い

初平3年(192年)、兗州には青州から大規模な黄巾軍が流入しました。

 

「魏志」武帝紀には、

黄巾三十余万、男女百余万

と記されており、戦闘員がおよそ30万人、

家族などの非戦闘員を含めると100万人以上に及ぶ巨大集団だったとされています。

 

もちろん、この数字には誇張が含まれる可能性もありますが、

それでも当時としては極めて大規模な勢力であったことは間違いありません。

 

当時の兗州刺史は劉岱でした。

劉岱は黄巾軍との決戦を主張しましたが、済北相の鮑信は

「敵は勢いが強い。籠城して疲弊を待つべきです」と進言します。

 

しかし劉岱はこれを受け入れず、自ら出陣して戦い、黄巾軍との戦闘で戦死しました。

兗州刺史の劉岱は反董卓連合に参加した人物ですが、

反董卓連合にに参加する前に劉岱を兗州刺史に任じたのが董卓というのは余談です。

 

また「済北相」であった鮑信が手助けする形で劉岱を助けて戦ったわけです。

「済北国」も兗州に属する一つの郡になります。

 

勿論ですが一応自分自身で動かせる軍勢の所持はしていますが、八つの郡の太守(国相)に命じれるわけではないのです。

あくまで八つの郡が、自身が治める郡国の軍勢のみを指揮できるという構図になります。

 

例えば劉岱が治めていた兗州を例にとると、

兗州には八つの郡(陳留郡・東郡・山陽郡・泰山郡・済陰郡・東平国・任城国・済北国)がありますが、

これらの郡国の軍勢に命じることはできません。

 

兵士を動かせる権限があるのは、

陳留郡・東郡・山陽郡・泰山郡・済陰郡・東平国・任城国・済北国のそれぞれの太守(国相)のみという感じですね。

 

一方で州牧は軍事権が与えられており、その州の郡国に命令が出せるわけですが、

鮑信亡き後に迎えられた曹操は州牧(兗州牧)として迎えられています。

曹操を兗州牧へ迎える

刺史を失った兗州では後継者選びが急務となります。

鮑信は諸将と協議した結果、東郡太守であった曹操を迎え、兗州牧に推戴しました。

 

これが曹操飛躍の大きな転機となります。

その後、鮑信は黄巾軍との戦いで戦死しました。

 

主君を失った于禁は曹操の配下となり、ここから長きにわたる活躍が始まります。

 

于禁は曹操配下となってから数々の戦場で武功を重ねました。

徐州討伐では勇戦し、豫州では黄劭ら黄巾軍を討ち破り、袁術討伐などにも参加して曹操の勢力拡大に大きく貢献しています。

 

しかし、于禁が曹操から絶大な信頼を得るきっかけとなったのは、張繡の反乱でした。

 

建安2年(197年)、曹操は張繡の奇襲を受け、典韋・曹昂・曹安民らを失う大敗を喫しました。

混乱の中、一部の青州兵は味方の民家や物資を略奪し始めます。

 

于禁はこれを見逃さず、軍法に従って略奪を行った兵を厳しく処罰しました。

さらに、敵軍の追撃に備えて防御陣地を整えてから曹操のもとへ赴き、戦況を報告します。

 

青州兵は

「于禁は味方を攻撃しました」

と曹操へ訴えましたが、事情を知った曹操は、

「于禁は乱にあっても法を守り、公私を分けた。古の名将にも劣らない。」

とその冷静さと規律を高く評価しました。

 

この出来事以後、于禁は曹操軍の中でも特に厚い信任を受けるようになります。

青州兵(曹操軍精鋭)誕生の秘話

曹操軍最高位の将軍

于禁は数々の戦功を重ね、最終的には左将軍にまで昇進しました。

これは張遼・張郃・徐晃・楽進らと並ぶ曹操軍屈指の将軍であり、五将軍の中でも最も高い官位でした。

 

また陳寿は『三国志』で、

「于禁は最も法令をよく守り、軍紀を厳格に維持した。」

と評しています。

 

勇猛さだけでなく、規律ある軍隊を維持できる統率力こそが、于禁最大の長所でした。

樊城の戦いと悲劇

建安24年(219年)、関羽は樊城を包囲します。

曹操は于禁を総大将として七軍を率いさせ、曹仁の救援に向かわせました。

 

しかし到着直後、記録的な豪雨によって漢水が氾濫します。

正史『三国志』では「漢水溢」と記されており、七軍は洪水によって壊滅状態となりました。

于禁軍は高所へ避難するしかなく、軍として戦闘を継続できる状況ではありませんでした。

 

そこへ関羽軍が包囲を完成させます。

于禁は部下たちの命を守るため降伏を決断しました。

 

一方、副将の龐徳は最後まで抵抗を続け、捕らえられた後も降伏を拒否して処刑されています。

 

この報を聞いた曹操は、

「于禁とは三十年付き合ってきたが、危難に際して龐徳にも及ばなかったとは思わなかった。」

と嘆いたと伝えられています。

 

もっとも、司馬懿や蔣済は

「于禁は戦いに敗れたのではなく、天災によって軍を失ったのです。」

と曹操へ進言しており、于禁を擁護しています。

帰国後の屈辱

その後、関羽は呉軍によって討たれ、于禁は呉から魏へ送還されました。

しかしその頃には曹操はすでに亡くなり、魏王朝では曹丕が皇帝となっていました。

 

帰国した于禁は、長年の苦労により白髪となり、すっかり老け込んでいたと伝えられています。

曹丕は一見すると丁重に迎えましたが、曹操の陵墓へ参拝するよう命じます。

 

ところが陵墓には、

  • 于禁が関羽へ降伏する場面
  • 龐徳が最後まで抵抗して処刑される場面

を描いた壁画が用意されていました。

 

これは于禁に大きな屈辱を与えるものであり、「魏志」于禁伝にも記されています。

于禁は深く恥じ入り、その後まもなく病となって亡くなりました。

「厲侯」という諡号

于禁の死後に贈られた諡号は「厲侯」でした。

 

「厲」は一般的には

  • 厳しい
  • 災いを招く
  • 過失を戒める

といった意味合いを持つ、決して名誉ある諡ではありません。

 

また、曹操の功臣たちが祀られた廟庭には、

張遼・張郃・徐晃・楽進・龐徳らが列せられましたが、于禁は加えられませんでした。

樊城での降伏が、それほど重く受け止められていたことがうかがえます。

陳寿の評価

『三国志』を著した陳寿は、

「于禁は五将軍の中でも最も法令を厳格に守り、威厳に満ちた将軍であった

。しかし、その最期だけは惜しまれる。」

と評しています。

 

これは于禁の生涯全体を高く評価しながらも、

樊城での降伏だけがその名声に影を落としたという、公平な歴史評価と言えるでしょう。

 

正史を通して見る于禁は、

「降伏した将軍」という一面だけで語れる人物ではありません。

三十年近く曹操に仕え、軍紀を守り続け、多くの戦場で功績を挙げた曹魏屈指の名将でした。

 

樊城での降伏も、洪水によって軍が壊滅し、

戦闘継続が不可能となった極限状態での決断でした。

当時から司馬懿や蔣済が擁護しているように、単純な臆病や裏切りと断じることはできません。

 

于禁の晩年は悲劇的なものでしたが、

その生涯全体を見れば、曹操が最も信頼した将軍の一人であり、

厳格な軍律と統率力で曹魏の基礎を支えた名将であったことは、正史の記述からも明らかです。