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王平(おうへい)
王平は益州巴西郡出身で、
曹操が漢中へ侵攻してくると魏の曹操に仕える事になります。
その後、劉備が漢中へ攻め込んできて曹操を破りますが、
この時、王平は劉備に主替えしています。
そして蜀にとって、
王平はなくてはならいない人材になっていきます。
街亭の戦い(第一次北伐)での王平の活躍
諸葛亮(孔明)が満を持して行った第一次北伐、
ここで勝敗の分岐点ともいえる街亭の戦いが起こります。
諸葛亮は街亭を蜀の生命線と考えており、
ここを任されたのは孔明に可愛がられていた馬謖でした。
実際、実践不足な点から馬謖より魏延や王平を守りに推す人達が多かったですが、
最終的に諸葛亮の権限で、馬謖が街亭の守備を任せる事になります。
しかし、孔明自身もさすがに周りが言うように馬謖への不安はあり、
そこで王平を副将として馬謖に付き従わせます。
馬謖は街亭につくと、
陣は高い所に築いた方が有利と判断し、山の上に陣を築きます。
王平は山の上に陣を築く事を大反対しますが、
馬謖は自分が優れており、王平を下に見ていた為に自分の主張を貫き通します。
そこに現れた張郃に山を包囲され、馬謖は惨敗を喫してしまいます。
しかし王平軍は1000人ながら、
山が包囲された時の対策をして別に陣を築いていました。
この王平が率いる1000人の部隊が、必死に張郃軍の攻撃を防いだ為、
張郃も蜀軍に伏兵があるのではないかと疑い、それ以上侵攻しませんでした。
張郃の攻撃が終わると、王平は敗残兵をまとめて撤退させています。
王平の活躍がなければ、
馬謖軍は全滅していたともいわれています。
馬謖は斬首に処されましたが、諸葛亮は王平のあまりの功績の大きさから、
罪を問われるどころか、孔明から大変感謝されたようです。
また王平のこの時の働きに報いるべく、参軍・討寇将軍に任命されると共に、
亭侯という爵位までもらっています。
第4次北伐での王平の活躍
王平が徹底して任された仕事を遂行する為、
諸葛亮の北伐に王平は欠かせない人材になります。
231年に祁山へ出陣した第4次北伐では、
魏は二面作戦で諸葛亮が守る陣と王平が守る陣を攻めますが、
王平の守る陣は堅く、張郃の侵攻を防ぎ切っています。
またこの戦いで孔明は司馬懿・張郃軍に対して勝利をつかみますが、
食糧不足に陥ってしまった為、退却しています。
ちなみに食糧不足と書いてますが、
単純に李厳が嘘をついただけなんですけど・・・
とりあえず今回の第4次北伐では、司馬懿・張郃を破っているので、
最近の北伐の中では蜀軍に有利な状況だっただけに、
孔明にとっては非常に残念な結果になった北伐でした。
ただ追撃してくる張郃を、孔明はきちんと討ち取るという成果もあげています。
第5次北伐からの魏延の討伐
234年に孔明は五丈原に兵を進めますが、
孔明はこの戦いの最中に陣没してしまいます。
孔明自身、自分の寿命は近いと悟り、自分が死んだ際の撤退方法を伝授していました。
しかしここで蜀将であった魏延が撤退命令に従わない事態が発生します。
孔明の遺言に従わなかったというより仲が悪かった楊儀からの指示だった為、
楊儀からの指示を聞きたくなったというのが正直な所だろうなと思います。
とにもかくにも楊儀と魏延が、諸葛亮の死後直後にぶつかることになります。
この時楊儀の先鋒として魏延にあたったのが王平でした。
そして魏延軍に対して、
「丞相の遺体が冷たくならないうちから、こんな謀反まがいなことしてお前たち頭大丈夫か?
どんな罪が及んでも知らんぞ!」
と一喝すると、魏延軍の大半の兵士が逃げ去ったと言います。
これにより蜀軍随一の武力を誇っていたと言われる魏延は、
簡単に討ち取られてしまいます。
漢中方面の魏対応を任命される
孔明の遺体が成都へ到着し、蜀軍が無事に撤退できると、
魏延軍との功績などからも後典軍・安漢将軍に任じられています。
またこの時、呉懿が漢中方面を統括していた中で、
王平は漢中太守を任されています。
237年に呉懿がこの世を去ると、
呉懿の後任として呉懿の治めていた漢中方面一帯は王平に任されることになります。
この時王平は安漢侯の爵位を貰っています。
その後は前監軍・鎮北大将軍に任じられています。
曹爽の漢中侵攻
その後、曹叡がこの世を去り曹芳が跡を継ぐと、
曹爽・司馬懿に曹芳の補佐を任されるんですけど、
司馬懿に対して全く実績のなかった曹爽は司馬懿を遠ざけ、
蜀討伐を自分の手で果たすべく10万の兵を引き連れて漢中へ侵攻してきます。
曹爽としては、ここで結果を出して名声を手に入れ、
司馬懿に完全にとって代わりたいと思った感じでしょうね。
しかし曹爽軍に比べて圧倒的に兵力が少なかった王平軍ですが、
曹爽の思惑通りに進まず、魏の侵攻を防がれてしまいます。
そして王平の奮闘を援助する形で費禕の援軍が到着し、
曹爽軍は壊滅的被害を被ります。
曹爽の狙いは大きく外れ、名声が高まるどころか地に落ちた形でした。
完全に相手が悪かったとしか言いようがないです。
王平が漢中を守っていた間、魏軍の侵攻を全て防ぎ切り、
「北の王平」と褒め称えられています。
ちなみに国を外敵から守る3人の将軍は、
「北の王平」「東の鄧芝」「南の馬忠」と呼ばれるようになります。
- 北の魏軍から蜀を守る王平「北の王平」
- 東の魏軍から蜀を守る鄧芝を「東の鄧芝」
- 南の異民族から蜀を守る馬忠を「南の馬忠」
そして王平が亡くなった後、蜀末期を支えた張翼や廖化と並んで、
「前に王平・句扶あり、後に張翼・廖化あり」と言って、
人々は王平の功績を思い出して褒め称えています。
三国志演義での王平
三国志演義では、孔明の第1次北伐時、
このあたりの地理に詳しかった王平は徐晃の道案内を任されますが、
この時作戦上の問題で徐晃と揉めます。
結果的に王平の言っていたことが正しかったのですが、
徐晃が責任を逃れるために、王平に罪を全てなすりつけます。
無実の罪で殺される事を恐れた王平は、
他に選択肢がなく、仕方なく蜀に降ったという感じで描かれていますね。
陳寿の評価
三国志正史を書いた陳寿は、
王平の事を次のように記載しています。
「王平はそれまで生活してきた環境から文字は10文字も書けず、
読むこともほとんどできなかったが、王平が話す言葉は道理に適っているものだった。
そして司馬遷が残した史記や班固が残した漢書を字が読める人に読んでもらったところ、
耳で聞いただけで、その内容の核となる大部分を理解するほどだった。
また王平は法律を厳守し、人の悪口を言わなかった。
ただ性格が偏狭だったため常に疑い深く、軽はずみな行動をとる事があり、
そこが短所であった。」
陳寿の王平論へのぼやき
疑い深いからこそ、しっかりと敵が考えている所を推測し、
きちんとした対応が取れたと個人的には思う所はありますが、
陳寿はそこが王平の欠点だったと言っています。
また軽はずみな行動というか、
慎重かつ冷静に常に対応しているイメージしかないので、
具体的にどういう所からそういう言葉がでたのか、
陳寿に追記していてほしいところでした。
じゃないとぶっちゃけ王平の良い所を探すのは簡単だけど、
悪い所はきちんと具体的に言ってもらわないと正直言って分からないレベルですね。