趙雲の再来と言われた文鴦(ぶんおう)
文鴦は文欽(ぶんきん)の子として生まれ、
肝っ玉の据わった武将というか豪傑と呼ぶに相応しい人物に成長していきます。
父であった文欽が毌丘倹と共に寿春で反乱を起こすと、
文鴦も父に従って参加する事になります。
司馬師は毌丘倹・文欽の反乱にいち早く対応し、
司馬師に従っていた鄧艾が文欽を誘い出す計略を立て、大軍をもって文欽を討とうと考えます。
これに見事にはまって出陣した文欽・文鴦でしたが、
誘い出された事に気づいた文欽が急いで退却しようとしました。
しかしここで文鴦は父に対して、
「まだ勝敗は決まっていない。
太鼓を盛大に打ち鳴らし、大声を上げて攻めれば敵を打ち破れるはずだ!」
というと、文鴦は敵に3度攻めかかります。
息子が3度の突撃をしたにもかかわらず、
父であった文欽が戦う意思が既にありませんでした。
これを見た文鴦は、これ以上ここで戦っても無意味だと判断し、
父と共に撤退しています。
これをみた司馬師は、追撃を開始します。
周りの者達は「文欽は曲者だし、その子の文鴦も武勇に優れた者だから、
このまま追撃するのは危険ではないか!?」と司馬師に助言します。
これに対して司馬師は、
「文鴦が3度も突撃したのに、文欽がそれに応じる事がなかった。
もう勢いはないも同じだ」と言って追撃をやめることはありませんでした。
文鴦、意地の突撃
司馬師の追撃が緩む事がなかった為、
文鴦は、「このまま負けるにしても今のままでは終われない!!」と言って、
馬を返すと、10騎程度を率いて追撃してくる司馬師軍に突撃を開始します。
文欽はその隙に退却する事に成功し、
その後文鴦も父の後を追って合流すると、そのまま呉へ亡命しています。
ちなみに毌丘倹は、呉への亡命に失敗し、
その後討ち取られています。
司馬師を死に追いやった文鴦の突撃
この時の文鴦の突撃がすさまじく、
司馬師にとって不幸な事に左目が飛び出してしまいます。
この時の司馬師は、左目の下にできたコブの治療を行った後だった為、
まだ完治していない状態だったのが原因ではあったのですが、
おそらく文鴦の凄まじい突撃によって完全に傷が開いたのでしょう。
この時の痛みは半端なものではなく、痛みを堪えて指揮を続けたそうです。
しかしこれがきっかけとなり、司馬師は255年のこの年に亡くなります。
諸葛誕の乱
毌丘倹・文欽が反乱を起こした際に、
二人からの誘いを断って、司馬師に付き従って攻めてきた諸葛誕が、
2年後の257年に、毌丘倹・文欽が反乱を起こした寿春で司馬昭に対して反乱を起こします。
※司馬師亡き後、弟の司馬昭が跡を継いでいる
諸葛誕はこの時、呉に援軍を送ってくれるように求めていますが、
この時呉からの援軍として送られたのが文欽・文鴦らでした。
しかし状況が悪化していくうちに、
諸葛誕と文欽が仲違いを始め、諸葛誕が文欽を斬り殺してしまいます。
この事実を知った文鴦は、魏と戦う意思がなくなり、
かつて反乱を起こした魏へ投降を申し出ます。
司馬昭は兄の仇でもあり、かつて反乱を起こしたという罪を背負っていた文鴦を殺さずに許し、
文鴦の降伏を受け入れています。
文鴦の降伏が許された事で、多くの兵士達が降伏を申し出ています。
これにより諸葛誕の反乱は壊滅的状態に陥り、
その結果鎮圧され、諸葛誕の一族は処刑されてしまいました。
諸葛誕が討たれた後、文鴦は文欽の亡骸を運び、
きちんと埋葬してあげたそうです。
晋での限られた活躍
魏に仕える事になった文鴦ですが、
司馬昭がこの世を去ると、265年司馬炎が魏を滅ぼして晋を建国します。
文鴦が魏晋に仕えてからの活躍に関する記録はほとんどありません。
ただ涼州を荒らしまわっていた異民族を討伐するように命令を受けます。
暴れていた異民族は、文鴦によって散々に蹴散らさて、逃げて行きます。
それからしばらくしてから、
逃げてた異民族らは、文鴦の軍門に降ったそうです。
この異民族討伐によって文鴦の名は、世に広がったそうですが、
ちょっとこれだけで名が世に知れ渡ったというのは少し無理がありそうな気がします。
悲惨な末路
おそらく一度司馬一族に刃を向け、
その後仕方なしに再度魏に戻ってきた文鴦。
そして司馬師への死のきっかけを与えたのも文鴦であったことから
司馬政権の元では、あまり活躍の場が与えられなかった気がしてなりません。
実際その後、司馬炎によって文鴦は免職に追いやられています。
話はそこで終わらず、巻き添えを食った形で文鴦の一族は、
最終的に処刑されてしまうわけですから。
生まれるのが遅すぎた文鴦
はっきりいって、
文鴦は生まれるのが遅すぎた気しかしません。
三国志序盤、呂布・関羽・張飛・趙雲・馬超・典韋・許褚・孫策・太史慈・甘寧とか
もう言い始めたらきりがないほどの豪傑がいた感じですが、
時代が進むにつれ、そういった一騎当千と呼ばれるような武将は、
姿を消していったイメージが強いです。
そんな中で三国志末期の時代に差し掛かり、
場違いともいわんばかりに現れたのが文鴦でした。
しかし、時代が豪傑を求めている時代ではなくなっていたことが
やはり少し寂しい気がしますね。
だからこそ限られた中で、大きな光を発したのでしょう。