曹操の息子であり、曹丕の実弟であったのが曹植です。
曹操の息子に生まれたはいいものの、
その生涯は決して明るいものではありませんでした。
またこの記事のタイトルにあるように、
後の世で「詩聖」とまで言われたという話もあったりしますが、
私が調べた限りでは、曹植が「詩聖」と呼ばれた事実を見つけることはできていません。
ただ曹植が後世に多大な影響を与えたのだけは間違いないですね。
ここではそんな曹植の生涯を見ていきます。
曹操の五男として生を受けた曹植
曹操と第三夫人である卞氏との間に生まれたのが曹植でした。
曹植以外にも、兄の曹丕・曹彰、弟の曹熊も二人の間から生まれているので、
四人は実の兄弟という事になりますね。
第一夫人であった劉夫人が早くに亡くなり、
第二夫人であった丁夫人と曹操が離縁すると、
自然と卞夫人が正室としておかれることとなります。
これにより曹丕・曹彰・曹植・曹熊の四兄弟が後継者候補になったのでした。
蒼天航路(18巻8P)より画像引用
曹植は曹操から文才を強く引き継いだようで、
幼い頃から並々ならぬ才能の持ち主だったといいます。
それは曹操から見ても驚くほどの才能で、
ある時曹植に対して、
「お前はいつも誰に代筆してもらってるんだ?」
と疑った話も残っています。
それに対して曹植は、
「言葉が口をついて出れば議論となり、
筆をおろせば文章となります。
どうか父上の目でお確かめて下さいませ。」と返したといいます。
蒼天航路(18巻65P)より画像引用
銅雀台が完成した時には、
曹操は自分の息子達を連れて銅雀台に登らせて「賦」を作らせたこともありましたが、
曹植は筆をとると、即座に「賦」を作り上げ、
その「賦」が並外れて立派だったことから、曹操の寵愛は更に深いものとなっていきました。
曹操は才能ある者を愛した事でもよく知られており、
それは息子に対しても同様で、
早世してしまった曹沖なんかはその最たる例でしょうね。
曹植の本音
蒼天航路(30巻150P)より画像引用
上でも述べましたが、誰しもが曹植に持つイメージは、
文人や詩人といったイメージを持っている方が圧倒的に多いでしょう。
しかし曹植は14歳から従軍することも多かったようで、
例えば、馬超・韓遂と戦った潼関の戦いや張魯討伐など、
大きな戦いにも普通に参加していたのです。
曹植自身は幼い頃から文才・詩才に優れてはいましたが、
本人は文才で後世に名を残すことが立派な事だとは思っていませんでした。
「あくまで男子というものは、
戦いの中で武勲を挙げ、
民衆のことを想った政治を行い、
国の為に尽くすことが立派である。」という考えがあったようです。
ただそういった曹植の考えとは裏腹に、
文才や詩才の面で高い評価を受けていくこととなります。
酒に溺れた曹植
曹操からの寵愛を受けた曹植は、
長男であった曹丕と後継者争いを繰り広げるようになっていきます。
これは曹植がというより、曹植を持ち上げようとする者達がいたことも要因ですが、
曹植は酒を飲むようになると、だらしなくなる性格だったようです。
酒による失敗も多くなり、曹操の寵愛も薄れていったようで、
最終的に曹丕が後継者となります。
それからも曹植の失態は続くこととなり、
ある時に曹植が馬車に乗って皇帝専用の道路を通ってしまうことがありました。
しかしそれを聞いた曹操は、
曹植の行動に大変な怒りを覚えたわけで・・・
曹植がこのような軽はずみの行動をとったのには理由があり、
漢帝国の権威は地に落ちていたのも大きな原因でした
しかし曹操としては、あくまで自分は漢帝国の臣下の一人だという認識であり、
漢帝国に忠義を尽くす者達の反発を買う曹植の行動を許すわけにはいかなかったのです。
それからというもの、曹植の側近であった楊修を処断したりと、
曹操自身が亡くなった後に問題が起こらないように曹植派の主要人物を削っていったのでした。
後継者は曹丕に決定してるとはいえ、
側近が良からぬ考えのもとに曹植を後継者として持ち出せば、
国の分裂につながっていく可能性も大いに秘めていたわけですからね。
三国志演義では「鶏肋」という逸話から、
曹操に無理やり処刑されてしまった楊修ですが、
正史では魏諷の乱が起きた年に亡くなっており、
それが原因で処刑された可能性も普通にあると思っています。
魏諷の乱は情報が漏れたことで事前に防がれた反乱ですが、
多くの名士が参加していた反乱であり、
これは曹植を跡継ぎにしたい為の反乱だった背景もちらほらと見えるからです。
曹操亡き後の曹植
曹操が亡くなり曹丕が跡を継いで魏を建国すると、
曹植派の丁儀・丁廙兄弟も処刑され、
ますます曹植の立場は悪くなり、次第に追い込まれていくこととなったのです。
曹植は心身共に疲れ果てていくものの、
なんとか自分を用いてくれるように嘆願したようですが、
曹丕にそれが聞き届けられることはありませんでした。
曹丕が亡くなって曹叡が跡を継いだ際には、
曹植は最後のチャンスとばかりに自分を用いてくれるように嘆願し、
曹叡は曹植の言葉に耳を傾けようとしますが、
これも周りからの反対もあって却下されてしまいます。
結局曹植は最後の最後まで用いられることはなく、
悶々とした状況の中で41歳で亡くなってしまったのでした。
曹植の兄である曹彰も将軍の器を兼ねた優れた武人でしたが、
曹丕に用いられることはなく、不遇の中で最後を迎えていますし、
このあたりは曹植と同じ末路を辿っていますから・・・
もしも曹丕が過去のわだかまりを捨て、曹彰・曹植を高く用いてあげていたならば、
もう少し違った魏の未来があったのかもしれませんね。
曹植死後に・・・
蒼天航路(32巻62P)より画像引用
景初年間(237年~239年)になると、
曹植の立場がやっと見直されます。
曹植は既に亡くなっていましたが、
曹植の立場に転機がおとずれることとなります。
どういうことかというと、曹叡は次のような詔を出しています。
「昔の曹植は欠点も多かった。
しかしその後気持ちを入れ替え、己を慎みながら欠点を補っていた。
そして彼の凄い所は、幼い時から死ぬまで書籍を手放すようなこともなかった。 これは凄い事で、誰もができるようなことではない。
だから曹植の生前の罪は全て許し、
曹植の残した優れた賦・頌・詩・銘・雑論を見直して、 後世に残すように!」 |
この曹叡の対応のお陰で、曹植の生前の罪は許され、
多くの優れた作品が後世へと伝わっていくこととなったわけですね。
「三国志」著者の陳寿は、曹植を次のように評価しています。
「曹植は優れた文才を持っており、
その作品は後世に伝えるべきほどの価値のあるものであった。
しかし謙虚さに欠けていたことで災いを招き、 その結果、皇帝(曹丕・曹叡)との関係が悪化してしまったのは残念であった。」 |
また陳寿のそういった見方とは別の考えをした者達もいました。
その一人が魏に仕えた歴史家で、
「魏略」「典略」を著した魚豢という人物がいるのですが、
「貧しい者は節約することを学ばないし、
身分の低い者は謙虚さを学ばない。
人間というのは環境によって変わるものである。」
といったように曹植を擁護しています。
つまり「曹植が調子に乗ってしまった原因は、
曹植の才能を愛した曹操が後継者を誰にするか迷ってしまったのが原因であり、
結果として曹丕に嫉妬心が芽生えただけでなく、
曹植を増長させてしまったのである。」と曹操に非があると言っているわけですね。
とにもかくにも不遇の最後を迎えた曹植ですが、
曹植が世に与えた影響は計り知れないもので、
唐時代の有名な詩人である李白・杜甫もまた曹植の影響を強く受けています
そして李白・杜甫らが登場するまで、
最高の詩人として頂点に君臨し続けた人物が曹植その人だったのです。