兵は神速を貴ぶ

建安五年(西暦200年)、官渡の戦いに勝利した曹操は、

その翌年である建安六年(201年)にも倉亭の戦いにて曹操は勝利を収めています。

 

ただその後に袁紹が亡くなる建安七年(202年)5月まで、

曹操が華北へと深く攻め込むことはありませんでした。

 

しかし袁紹が後継者を決定していなかった事が災いし、

まだまだ力を蓄えていた袁家でしたが、袁譚(長男)と袁尚(三男)による後継者争いが勃発します。

  • 袁譚(長男)派←郭図・辛評が支持
  • 袁尚(三男)派←審配・逢紀が支持

 

 

これを好機と考えたのが曹操であり、袁紹遺児であった袁譚・袁煕・袁尚は次第に追い込まれていきます。

袁譚は曹操に利用される形で最終的に曹純によって討たれ、袁煕と袁尚は北方へと逃れます。

 

袁煕と袁尚はこの時に烏丸族の蹋頓に助けを求め、

それに応じた蹋頓は二人に協力して曹操を迎え撃つ事となります。

 

その時に誕生した言葉が郭嘉の「兵は神速を貴ぶ」です。

またこの時の郭嘉の言葉は、孫子の兵法書(作戦篇)にある言葉を郭嘉なりに言い換えた言葉なのでしょう。

故兵聞拙速、未睹巧之久也。

故に兵は拙速せっそくを聞くも、未だ巧の久しきをざるなり。

(戦争は完璧でなくても素早く行う事が良いとされている。

逆に完璧を求めるがあまりに、戦争を長期化されて良かったという例を知らない。)

 

夫兵久而國利者、未之有也。

夫れ兵久しくして国に利ある者は、未だ之有らざるなり。

(そもそも戦争が長引いて国家に利益があった試しはないのである。)

兵は神速を貴ぶが登場する「魏志」郭嘉伝  –原文&翻訳-

太祖將征袁尚及三郡烏丸、

曹操がまさに袁尚と三郡(漁陽・右北平・雁門)の烏丸族を征伐しようとした際に、

 

諸下多懼劉表使劉備襲許以討太祖。

多くの臣下は劉表が劉備を使って、太祖(曹操)討伐の為に許昌を襲うのではないかと心配した。

 

嘉曰:「公雖威震天下、胡恃其遠、必不設備。

郭嘉は言った。「公(曹操様)の威名が天下を鳴り響いているとはいえ、

蛮族は自分たちが遠地にいるのをよい事に防備すら整えていないことでしょう。

 

因其無備、卒然撃之、可破滅也。

そこを襲撃すれば、必ず攻め滅ぼす事ができます。

 

且袁紹有恩于民夷、而尚兄弟生存。

かつて袁紹が蛮族らに恩恵を施していた事から、袁煕・袁尚の兄弟を匿っているのです。

 

今四州之民、徒以威附、德施未加。

今四州(冀州・并州・幽州・青州)の民は威勢に帰属しているだけであって、

徳や施しが行き渡っているわけではございません。

 

舍而南征、尚因烏丸之資、招其死主之臣。

この状態で南征をすれば、袁尚は鳥丸族の資源を利用し、決死の覚悟の部下が終結することでしょう。

 

胡人一動、民夷倶應、以生蹋頓之心、成覬覦之計、

また蛮族がひとたび動けば、共に多くの賊が呼応し、

蹋頓の野心を更に大きくするだけではなく、その野望を実現させてしまうことにもなりかねません。

 

恐青・冀非己之有也。

そうなってしまえば、青州・冀州は我らの領土ではなくなることでしょう。

 

表、坐談客耳、自知才不足以御備、

劉表はただ座って議論をしているだけの人物であり、

己の才能では劉備を扱えない事は十分に分かっております。

 

重任之則恐不能制、輕任之則備不為用、

劉備を重く用いたとしても制御することはできないでしょうし、

軽く用いたとしても、劉備が動くことはないでしょう。

 

雖虚國遠征、公無憂矣。」

国を空にして遠征したとしても、公が心配するような事態にはなりません。」

 

太祖遂行。

曹操はこうして出征した。

 

至易、嘉言曰「兵貴神速。

易県までくると、郭嘉が言った。

「戦いというのは神の如き速さが大事であります(兵は神速を貴びます)。」

 

今千里襲人、輜重多、難以趣利。

今すぐに千里の彼方の者達を襲うにしては、

輜重(兵糧や武具等)が多く、勝利を得る事は難しいでしょう。

 

且彼聞之、必為備。

またやつらがこの事を耳にすれば、必ず備えます。

 

不如留輜重、輕兵兼道以出、掩其不意。」

輜重は留め置き、軽兵のみで進軍を強行し、やつらの不意を突くことが大事です。」

 

太祖乃密出盧龍塞、直指單于庭。

曹操は密かに盧龍塞を出て、直ぐに単于の本拠地を目指した。

 

虜卒聞太祖至、惶怖合戰。

蛮族らは曹操が現れたと聞くと、おそれを抱いたまま合戦するに至った。

 

大破之、斬蹋頓及名王已下。

曹操はこれを大いに破り、蹋頓や名王(部族をまとめる王)以下の者達を斬り捨てた。

 

尚及兄熙走遼東。

そして袁尚と袁熙は遼東へと逃亡した。