董遇(季直)

董遇は字を季直といい、司隸(司州)弘農郡の出身で、

質朴で口数は少なく、学問をひたすら好み、後漢末から魏の時代にかけて活躍した人物です。

 

董遇の家柄などの詳細は不明で、両親が誰だったのかなどは今に伝わっていませんが、

兄に董季中、息子に董綏がいたことが知られています。

※おそらく兄の諱は現在に伝わっておらず、董季中は姓+字だと思われます。

 

ちなみに董遇は三国志に個人伝が立てられている人物ではなく、

「魏志」王朗伝の裴松之注「魏略(魚豢)」に董遇に関する記録は残されています。

 

 

董遇は若い頃から非常に勉強熱心で、どんなに貧しい生活の中でも経書(儒学の経典)を常に手放さず、

少しでも時間を見つけると読書に励んでいました。

 

兄はそんな董遇の姿を見て笑う事もしばしばでしたが、

董遇はそのことを全く意に介さず、勉学に励み続けたといいます。

 

 

そんな董遇でしたが、興平年間(194年~195年)に戦乱を避けて、兄と共に段煨だんわいを頼っています。

 

二人が頼った時期は、王允・呂布らによって董卓が殺害され、

その二人もまた李傕・郭汜に追われていた辺りのタイミングにあたります。

 

ちなみに段煨は董卓に仕え、後に曹操に仕えた人物です。

 

 

建安年間(196年以降)に考廉に推挙されると、黄門侍郎まで昇進します。

 

黄門侍郎は分かりやすく言うと、皇帝の側近的な立ち位置にある官職で、

献帝も董遇に信頼を置くようになっていきました。

失脚&晩年

建安二十三年(218年)に、大医令であった吉本きつほんが、

耿紀・金禕・韋晃らと共にによる曹操殺害計画が企てるも失敗に終わります。

 

董遇自身はこの反乱計画に関与していなかったものの、取り調べの為に鄴へと行く事になるわけですが、

これにより董遇の疑いが完全に晴れるわけでもなく、結果的に閑職に追いやられてしまいます。

 

それからしばらく時が過ぎ、曹丕・曹叡の治世下での記録が簡単に残されています。

董遇は曹丕の治世下で地方太守を務め、

曹叡の時代に中央に呼び戻されると侍中・大司農を任された。

 

そしてその数年後に董遇は病死した。

読書百遍義自ずから見る&董遇三余

そんな董遇ですが、「読書百遍義自ずから見る」といった有名な故事が今に残されています。

 

これは董遇が弟子に語った事を由来とした言葉であり、

「書物はまず百回読むべきで、それだけ読めば自然と内容を理解できるものである。」

といった意味になります。

 

「継続は力なり」とも似たような一面がある意味ですね。

 

 

他にも董遇と弟子との間に次のような逸話も残されています。

生活が苦しく、勉学に励むための時間がないという弟子に対して、

董遇は三つの余りを使うべきであると助言しています。

 

弟子がその三つがなんであるかをたずねると、

「冬は歳の余(冬は一年の余り)、夜は日の余(夜は一日の余り)、

陰雨は時の余なり(雨降りは時の余りである)と返したそうです。

 

つまり「冬の季節を活かしなさい。一日の終わりである夜を活かしなさい。

雨が降っている時間を活かして勉強をしなさい。(冬・夜・雨の余暇を活かしなさい)」と語ったわけです。

 

この董遇の言葉は、董遇三余(読書三余)として知られています。

 

また王朗伝にある裴松之注「魏略」には次のような事も残されています。

 

董遇は「老子」を深く理解しており、その注釈を作った事もあり、

そればかりか「春秋左氏伝」にも精通していた事で、「朱墨別異」を著したといいます。

 

董遇・賈洪・邯鄲淳・薛夏・隗禧・蘇林・楽詳ら七人を儒学の宗家として紹介しています。

「弘農王参拝」に関する曹操との逸話

董遇には曹操との次のような逸話が残されています。

かつて董卓によって廃された少帝(劉弁/弘農王)の墓の側を、

ある時に曹操が通る事がありました。

 

この時に曹操は参拝するべきかどうか悩み、臣下の者達にたずねます。

しかし臣下の誰もがその問いに答えられなかったといいます。

 

その中で董遇は次のように曹操に進言した逸話が残されており、

曹操は董遇の進言を聞き入れた結果として、劉弁墓を参拝することはなかったといいます。

董遇は「春秋」の教えでは、即位して間もなくして崩御した場合は正統な君主とみなされません。

弘農王の場合はまさにこれにあたるものでございます。よって参拝する必要はないでしょう。