太史慈(子義)
太史慈(たいしじ)が青年だったころ、
劉備の援軍を借りて、孔融を助けた話がありますが、
同郷であった劉繇(りゅうよう)が揚州刺史に任命されると、
太史慈は、劉繇の食客として仕えることになります。
太史慈と孫策の一騎打ち
太史慈が食客として迎えられた頃、
孫策が攻め込んできます。
太史慈は武勇に優れた武将でしたが、
劉繇は太史慈を偵察隊としての任務しか与えられませんでした。
なので太史慈が孫策軍を探る為に、
偵察していた最中に偶然にも孫策と出会います。
孫策もまた太史慈同様、劉繇軍の偵察をしていた最中でした。
敵の大将に巡り合った太史慈が、
好機とばかりに孫策に一騎打ちを申し込みます。
この一騎打ちを快く受けた孫策でしたが、
勝負がつかず、引き分けとしてお互い引き揚げます。
これが二人の最初の出会いになります。
三国志では多くの一騎打ちが繰り広げられています。
しかしほとんどは三国志演義だけの演出の場合が大半です。
ですが、孫策と太史慈の一騎打ちは、
正史にもきちんと記載が残っている本当の話です。
太史慈の意地
劉繇が孫策に敗北すると、
太史慈は、自分自身を丹陽太守と称して、
敗れた劉繇軍の一部の兵を率いて、徹底抗戦の姿勢を見せます。
最終的に太史慈は敗れてしまいますが、
太史慈に惚れ込んだ孫策は、太史慈を仲間に誘います。
そして孫策の器量に惚れた太史慈は、
孫策に仕える事を決意します。
孫策と太史慈の絆
横山光輝三国志(11巻84P)より画像引用
太史慈が孫策に降って後、
劉繇が間もなく寿命でこの世を去ります。
劉繇が死んだことを太史慈が知ると、
劉繇の残党を集めてくる為に、一時孫策の元を離れることを願い出ます。
孫策は太史慈の言葉を信じ、
太史慈に離れる事を許可しています。
これを聞いた家臣達は、
「二度と太史慈が戻ってくることはないでしょう」といいますが、
孫策は残党をまとめ上げ、約束通り帰ってきます。
一騎打ちを繰り広げたからこそ、お互いを理解し合える。
そんな関係だったのかもしれませんね。
孫策の死
孫策が刺客に襲われて死亡すると、
太史慈は孫策の跡を継いだ孫権に仕えます。
孫権も孫策同様、
太史慈の才能を愛して重用しています。
しかし206年、病気にかかり、
41歳でこの世を去ってしまいます。
曹操から誘われた太史慈
曹操が太史慈の噂を聞いて、
是非こちらの陣営に迎えたいと思った事がありました。
そして「当帰」という薬草を添えて、
好条件で誘った事がありましたが、
もともと忠義に厚い人物だった為、
孫家以外に仕える意思はなく、
当たり前のように曹操からの誘いを断っています。
ちなみに「当帰」という薬草を送ったのは、
当たり前ですが、太史慈の体調が悪かったからではありません。
「当帰」には、
青州に帰るべしという意味があり、
当時青州は曹操の領地だったことからも、
「こちらに来い!」という意味が込められていたのです。
三国志演義での太史慈
横山光輝三国志(29巻46P)より画像引用
三国志正史では、
赤壁の戦い前の206年に病死していますが、
三国志演義では、赤壁の戦い以降まで生きてる設定です。
そして209年の合肥の戦いで、
張遼の罠にかかって死亡しています。