陳宮(字:公台)

陳宮は、兗州東郡武陽県の出身で、後漢末期を代表する知略の士の一人です。
正史では剛直で気骨ある人物として描かれており、
後に曹操へ反旗を翻して呂布に仕えたことで知られています。
ただし、三国志演義で有名な「曹操を逃がした恩人」という逸話の多くは創作であり、
正史における陳宮の姿はそれとはかなり異なっています。
若き日の陳宮
陳宮は若い頃から豪傑や名士たちと広く交際し、その人望を知られていました。
しかし正史には、演義で描かれるような
- 董卓暗殺に失敗した曹操を捕らえる
- 曹操の志に感動して逃がす
- 呂伯奢一家殺害事件を見て曹操を見限る
といった話は記されていません。
これらは主に三国志演義による創作です。
正史において陳宮は、すでに曹操配下の有力人物として登場します。
曹操の兗州掌握を支えた功臣
初平三年(192年)、青州黄巾軍が兗州へ侵入すると、
戦いの中で兗州刺史の劉岱が戦死し、兗州は大混乱に陥ります。
この時、済北相であった鮑信は、曹操を兗州牧に迎えようと提案しました。
「魏志」武帝紀(裴松之注「魏晋世語」)によれば、
この時に陳宮が積極的に働きかけ、曹操擁立に大きく貢献したとされています。
ちなみにここでは、陳宮の言葉に耳を傾けて曹操を迎えたのが鮑信であるように書かれてあります。
曹操は青州黄巾軍を降伏させ、多数の兵を吸収しました。
後に「青州兵」と呼ばれるこの軍団は、曹操軍の中核戦力となります。
そのため陳宮は、曹操が中原の覇者へ成長する土台作りに貢献した人物の一人といえるでしょう。
曹操への反旗

興平元年(194年)、曹操の父親である曹嵩が徐州で殺害される事件が発生します。
激怒した曹操は徐州へ出兵しますが、その隙を突いたのが陳宮でした。
陳宮は兗州の名士である張邈らと結び、
「今こそ曹操に代わる主を迎えるべきである」と主張し、呂布を兗州へ招き入れます。
これによって兗州の大半が呂布側に寝返りました。
ただし、
- 鄄城
- 東阿
- 范県
の三拠点だけは持ちこたえます。
これは荀彧と程昱の活躍によるものでした。
曹操は急いで帰還し、約二年に及ぶ戦いの末に兗州を奪還します。
張邈は逃亡中に部下に殺害されました。一方、陳宮と呂布は徐州へ逃れます。
徐州へ逃れた陳宮は、そのまま呂布の軍師的存在となりました。
その後、呂布は徐劉備から徐州を奪います。
郝萌の反乱と陳宮への疑惑
建安元年(196年)、呂布配下の郝萌が反乱を起こしました。
反乱は高順の活躍によって鎮圧されますが、
郝萌の部下であった曹性が、「郝萌の反乱は袁術と陳宮がそそのかした」と証言しました。
これは「魏志」呂布伝(裴松之注「英雄記」)に見える逸話です。
しかし呂布は陳宮を処罰していません。
そのため、
- 証言が事実だったのか
- 冤罪だったのか
- 一部のみ事実だったのか
は不明です。ただ、この事件以後、高順と陳宮の関係が悪化した可能性はあります。
下邳の戦い&敗北
建安三年(198年)、曹操は劉備と協力して呂布討伐を開始します。
陳宮は呂布に対して、
「自分が城外に出て軍を率い、呂布が城を守る形で挟撃すべきです。」
と提案しました。
しかし呂布はその策に耳を傾ける事はありませんでした。
曹操は下邳を包囲し、水攻めを実施します。
長期包囲によって呂布軍は疲弊し、内部の不満も高まっていきました。
やがて
- 侯成
- 魏続
- 宋憲
らが反乱を起こします。
正史では、彼らがまず陳宮を縛り上げて曹操軍へ投降したことが記されています。
その後、呂布も観念して降伏した事で決着がつきます。
曹操との最期のやり取り

捕らえられた陳宮に対し、曹操は言いました。
「君ほどの才人が、なぜこのような結末になったのか?」
すると陳宮は呂布を指して、
「私の策に従わなかったからだ。」と答えます。
さらに曹操は続け、
「老母や妻子はどうするのだ?」と助命をほのめかしました。
しかし陳宮は、
「孝を重んじる者は人の親を害さず、仁を重んじる者は人の祭祀を絶やさない。
私の家族のことはあなたに任せる。」と述べ、降伏を拒絶しました。
そして自ら処刑場へ向かい、振り返ることなく死を受け入れたといいます。
陳宮の死後
陳宮の覚悟と節義に、曹操も深く心を動かされました。
「魏志」呂布伝(裴松之注「典略」)には、曹操は涙を流してその最期を見送ったと記されています。
さらに約束どおり、
- 陳宮の母を厚遇する
- 家族を保護する
- 娘が嫁ぐまで面倒を見る
など、遺族を手厚く遇しています。
陳宮は忠臣でも逆臣でも、一言で割り切れる人物ではありません。
若き日の曹操を支え、兗州経営に大きく貢献しながらも、後にその曹操へ反旗を翻しました。
しかし呂布配下となった後は最後まで主君を見捨てず、降伏による延命も拒否しています。
そのため正史の陳宮は、
「主君を選び誤ったかもしれないが、
自ら選んだ道を最後まで貫いた剛直な士」として描かれています。
また曹操との最期のやり取りは有名な名場面の一つとして今に伝えられています。



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