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諸葛亮(孔明)の発明品
諸葛亮(孔明)は政治家・軍略家でありながら、
発明家という側面も持ち合わせていました。
今回はそんな孔明の発明したものを紹介したいと思います。
木牛流馬(もくぎゅうりゅうば)
まずは蜀が魏を攻める際に、
道が険しく、食糧の輸送に四苦八苦しており、
それをスムーズにできるように発明した物になります。
現在でいう所の四輪車や一輪車だったと言われていますが、
はっきりと詳細を記載した資料は残っていません。
連弩(れんど)
次に紹介するのは、連弩(れんど)とよばれるもので、
これまで使われていた弓を改良したものです。
分かりやすくいうとボーガンみたいな感じで、
同時に10本の矢を射る事ができたそうです。
実際連弩の発想が登場したのはもっと前の時代ですが、
これをコンパクトに使い勝手をよくしたのは間違いなく孔明でした。
孔明はこれを連弩隊として指揮したといった話もありますが、
一方で孔明の死後に姜維が初めて実戦で使ったという話もあります。
ちなみに姜維が連弩を利用したのは、剣閣攻防戦でした。
鍾会・鄧艾率いる魏軍が漢中を落とし、蜀へ攻め込んできた際に、
姜維は天然の要害であった剣閣(けんかく)で守ります。
この際に姜維は連弩の雨を降らせ、手痛い打撃を魏軍に与えています。
横山光輝三国志(60巻196P・197P)より画像引用
饅頭(まんじゅう)
現在饅頭は、世界中に広まっているものですが、
饅頭を最初に作ったのは孔明だと言われています。
饅頭が生まれたのは、劉備の死後に南蛮の反乱を鎮める為に、
孔明が南蛮討伐に出かけ、平定した後の話です。
成都への帰路にあった孔明ですが、
川が氾濫しており、渡る事ができませんでした。
それを見た孟獲(もうかく)が、
氾濫を鎮める為には49人の首を生贄として捧げようとします。
横山光輝三国志(49巻113P)より画像引用
これを聞いた孔明は、自分には自分の考えがあるので、
決して49人の首を取ってはならないと命令します。
悪しき風習を止めさせるために孔明が考えたのが、
牛や馬の肉をまるめて、それを小麦粉を練ったもので覆って、
人の頭のように見せるといったものでした。
横山光輝三国志(49巻117P)より画像引用
それを49個作り、それを生贄として捧げると、しばらくして川の氾濫は静まります。
静まるべくして静まった川ですが、
孟獲らにとっては小麦粉で作ったもので静まったように見えたわけです。
その後は人の首を生贄に捧げるのではなく、孔明が教えたこの方法が受け継がれていきます。
これが饅頭の始まりだと言われています。
地雷&からくり木獣
三国志演義には、
南蛮との戦いで初めて使ったとされる地雷(導火線付き)。
横山光輝三国志(49巻73P)より画像引用
人が操縦して火をはかせる「からくり木獣」といったものが
南蛮平定戦で使われています。
これは、虎や豹といった獣を用いた戦術で挑まれた際に、
孔明がからくり木獣を用いて獣を追い払い、南蛮族を倒した時に登場したものですね。
横山光輝三国志(48巻197P)より画像引用
これらの発明を見ると、「孔明凄い!」ってなるかもしれませんが、
さすがにこれは三国志演義だけの空想上の話だと思われます。
諸葛菜(しょかつさい)
孔明は北伐の際、長い間陣中にいる事が多く、
いつも食糧に苦しめられていました。
その際に孔明は、カブの一種で、葉も根も全て食べることができ、
かつ簡単に栽培が可能だという事で、いつも陣中で育てていたと言われています。
これはもともと南蛮平定の際に見つけたもので、
それを孔明が普及させたことから「諸葛菜」と呼ばれるようになりました。
この諸葛菜は、
実際は大紫羅欄花(おおあらせいとう)というのが正式名称で、
葉の形が大根に似ており、花大根(はなだいこん)とも呼ばれたりしています。
ただ現在のものと当時のものは多少違いがあると思われ、
紫色の綺麗な花を咲き、現在のものは食べたりすることはありません。
紙芝居
教育という精神が欠けていた南蛮族の為に、
孔明は絵を板に書いてそれを順に見せていく事で教育を施したと言われています。
紙芝居というか板芝居というのが正直な所かなと思いますが、
紙芝居のきっかけを作ったのも孔明になります。
その他の発明品
上で紹介したもの以外にも、司馬懿に孔明が包囲された際に、
救援を求める為に「天灯」というものを用いたり、
他にも「石兵八陣」という、その構造を知らないものが迷い込めば、
二度と脱出する事ができないといったものも考えています。
「石兵八陣」が登場するのは、夷陵の戦いで劉備が敗れた際に、
劉備を追撃していた陸遜が「石兵八陣」に迷い込み、死にかけた話として記載されています。
また司馬懿を圧倒した「八陣図(八卦の陣)」というのも
似たようなものだと思います。
孔明が発明したと言われているものは、
実際に作られたものから空想に過ぎないといったものまで、様々なものがあります。
ですが、孔明が発明家の一面を持っていたのは間違いなく、
蜀を強くする為に生み出されたといっても過言ではないと思います。
もし平和な世の中であったならば、
孔明がこれらのものを発明したりすることはなかったかもしれませんね。
そして最後に紹介しておきたいのは、
孔明の裏方として、木牛流馬・連弩などを実際に開発・製造した蒲元の存在です。
もし蒲元がいなければ、
木牛流馬・連弩がこの世に出ることはなかったかもしれません。
それほどの人物だったのが蜀の技術者であり、発明家であった蒲元です。