関平(かんぺい)
関平は結論からいうと、関羽の実子になります。
「ただ母が誰なのか?」といった記録や、
関平の活躍についての記録はほとんど残っていないのが現状ですね。
関羽は呂蒙や陸遜の計略によって捕らえられて処刑されてしまうのですが、
「その時に共に捕らえられて処刑された」
という短い記録だけです。
その為に三国志演義でのイメージが非常に強い人物になっていたりします。
ですので実際に関平が関羽の養子だと勘違いしている人が多い現状は、
三国志演義の設定である「関羽の養子」の姿が、
実際の関平の姿だと錯覚してしまっているわけです。
このように正史に残る記述こそ少ないけれども、
関平が関羽と血の繋がった本当の親子ということだけは間違いない事実になります。
三国志演義での関平
劉備が徐州で曹操に敗れ、劉備は袁紹の元へ逃亡してしまいます。
また下邳城の劉備の妻子を守るために関羽は曹操に降っていますし、
張飛は山賊に身を落として過ごすことに・・・
しかし曹操と袁紹が激突したことがきっかけに、
劉備は戦場の中で関羽を見かけたことで、二人は合流へ向けて動き出すわけです。
そして最終的には劉備・関羽・張飛の再終結に成功するのですが、
関羽と関平の出会いは、その途中での出来事でした。
華北に住んでいた関定の屋敷が登場した際に、
関平はその関定の次男として登場しているわけですが、
屋敷の主人であった関定が関羽に惚れ込み、
「自分の息子を連れて行って欲しい!」と懇願したのです。
その時に子供がいなかった関羽に対して、
劉備が間を取り持つ形で、関羽は関平を養子として迎える事にしたのでした。
そして劉備が放浪の末に劉表の元へと流れ着くと、再び曹操という火の粉が飛んでくることに・・・
劉表より劉備が任されていた新野城に夏侯惇が攻め込んできたのですが、
関平も劉備陣営の一人として、活躍の場面が与えられています。
その後も多くの戦場に参加し、数多くの功績を上げていったわけですが、
最後は正史と同様に、関羽と共に陸遜らに捕らえられてしまい、
父親である関羽と共に処刑されたことで幕を下ろしています。
関帝廟の側に・・・
三国志演義からの影響で、
「関平が関羽の養子である」と思っている人達も多いですが、
最初でも述べたように、
関平は間違いなく関羽の実子になります。
関羽には関平とは別に、
夷陵の戦いで登場する関興(関平の弟)という子供もいますが、
これも先に答えを言ってしまうと、三国志演義だけの話です。
正史での関興は若くしてこの世を去っており、
活躍の記録はほとんどありません。
ただ関羽の息子であったことから期待はされていたようですが・・・
ですので関興も関平と同じように、三国志演義で、
活躍の場面を沢山に貰っている人物になりますね。
また三国志演義では、関羽と常に一緒にいる人物に周倉がいたりしますが、
最終的に麦城に追い込まれていた関羽が、
援軍を引き連れてくるまで囮として立て籠もっていました。
その間に関羽は自ら援軍を求めに走ったわけですが、
関羽・関平は捕らえられて処刑されてしまったわけです。
そして周倉が関羽の死を知ると、麦城から飛び降りて自殺してしまいます。
現在関帝廟には関羽が祭られていますが、
関羽の両端に一緒に祀られているのが、
最後まで一緒に戦い抜いた関平と周倉になります。
ちなみに周倉は、完全に三国志演義だけの架空の人物になりますが、
最後まで関羽を慕って生死を共にした忠義心が認められて祭られたのだと思われます。
ただ正史にも常に関羽に従った忠義の士がいたような描写があり、
その人物が周倉の元ネタとなった人物でもあるので、一応補足しておきます。