「魏」「呉」「蜀」の三国時代、
呉を建てた孫権の父親である孫堅、
「江東の虎」と恐れられ、
数々の功績をあげたにもかかわらず、志半ばで亡くなってしまったのでした。
ここではそんな孫堅の生涯について見ていきたいと思います。
目次
孫堅(文台/そんけん)の出生
孫堅の出生についてはよくわかっていません。
これだけ有名な孫堅ですが、
「名家」の出生とは言えなかったという事でしょうね。
もしきちんとした名家であったならば、
情報としてきちんと残っていたでしょうから・・・
ただ孫堅は「孫氏の兵法書」で知られる孫武の子孫であるとも言われていますが、
劉備と同様にそのあたりのはっきりとした証拠はありません。
このあたりはきちんとした証拠がない限り、
言ったもん勝ちみたいな所はあるだと思います。
ただ正史には「孫武の子孫」だとは、一応記載されててはいるんですけどね。
17歳のデビュー
孫堅が17歳の頃に、
たまたま揚州呉郡の銭唐県を訪れた時の話です。
そこで海賊が銭唐県の民衆に略奪行為を行っており、
それを見た孫堅は苦しめられていた民衆を救うべく一計を案じました。
まず孫堅は、海賊から綺麗に見える高地に移動します。
そして自分達を包囲する為の指示を出してるかのように指揮の真似事をやったわけです。
孫堅の様子を見た海賊は、慌てて逃げだしたといいます。
この話が広まったことで、孫堅の名は世間に知れ渡ったのでした。
そしてこのことがきっかけとなり、
役所に呼ばれて「仮の尉」に任じられることとなったのです。
「仮の尉」だけでは分かりにくいので、
軽く補足しておくと、今でいうところの警備員・警察のような役目ですね。
その後孫堅が「司馬」に任じられることとなるのですが、
「司馬」に任じられることになったきっかけは会稽郡での反乱でした。
会稽郡の宗教反乱者である許昌が反乱を起こしたのです。
許昌の鎮圧を任されたのが孫堅であり、見事に鎮圧することに成功しています。
一つ一つの功績を積み重ね、孫堅は確実に出世していくこととなったわけです。
黄巾の乱での活躍
184年になると、張角が大規模な反乱を起こします。
三国時代の幕開けともいえる黄巾の乱ですね。
黄巾の乱討伐で特に大活躍した後漢メンバーは、
盧植・皇甫嵩・朱儁の三名があげられるんですけど、
孫堅は朱儁の指揮下で黄巾賊討伐に参加することとなります。
朱儁・孫堅は、
最大の激戦区だと言われた潁川地区の討伐を任されたりしていますが、
潁川地域で暴れていた波才によって、
一時は打ち破られるなど苦戦を強いられています。
しかし皇甫嵩や曹操の助力もあり、
次第に形勢を逆転して、
最終的に勝利を掴み取る事にも成功!
宛城に立て籠もる黄巾賊討伐の際には、
孫堅が先頭に立って戦って宛城を陥落させる活躍も見せています。
黄巾の乱討伐で多くの功績をあげた孫堅は、「別部司馬」に任じられたのでした。
董卓との因縁
涼州で辺章と韓遂が反乱を起こすと、
この討伐に皇甫嵩・董卓が任命されます。
しかしこの討伐に皇甫嵩・董卓は苦戦を強いられたことで、
皇甫嵩に代わって張温が討伐に乗り出すのですが、
この時に孫堅が張温の参軍として付き従っています。
ちなみにですけど後に徐州を治めた陶謙も、
孫堅同様に参軍として、この討伐戦に参加しています。
張温・董卓は辺章・韓遂を倒すべく動くのですが、
普通に敗北を喫してしまったのでした。
この時にあまりに董卓が軍律違反を繰り返していたために、
孫堅は董卓の処刑を提案しますが、
張温は涼州で影響力のある董卓を処刑することには反対しました。
このことが張温の下で止まっていればよかったのですが、
どこからか漏洩して、孫堅が董卓を処刑するように言ったことが董卓の耳に入ってしまいます。
これにより董卓は孫堅に個人的な恨みを抱くようになったわけです。
最終的に辺章・韓遂の反乱の鎮圧には成功したのですが、
董卓と孫堅の確執は今後も続いていくこととなります。
辺章・韓遂の乱の裏話
張温が車騎将軍に任じられて辺章・韓遂の乱の討伐に向かう時、
中山太守を歴任していた張純がこの討伐に従軍したいと強く希望していました。
張温は張純のその希望を知りつつも、
張純を従わせることをしませんでした。
そればかりか張純ではなく、公孫瓚を従わせる始末・・・
この時に従軍を認めてもらえなかった張純の恨みが大きく、
後に張挙と手を組んで反乱を起こすきっかけになったわけですね。
張挙は「皇帝」を名乗り、
張純は「弥天将軍・安定王」を名乗り、
鳥丸賊の部族長であった丘力居の力を借りて大いに暴れることとなります。
まぁ皮肉にもこの討伐を任じられたのが、
張純に代わって従軍することになった公孫瓚だった事でしょうね。
区星(おうせい)の反乱
荊州南部にあたる長沙郡で
一万人を率いて反乱を起こした盗賊が区星でした。
反乱を起こした区星を退治する為に任命されたのが、
各地で武功を上げ続けた孫堅で、
この時に孫堅は長沙太守に任じられます。
任命された孫堅の活躍はすさまじく、
区星の反乱は一か月ほどで鎮圧されてしまうのでした。
長沙太守に孫堅が任じられ、
区星をはじめ多くの賊が討伐されたことで、
長沙郡近辺の治安は非常によくなったといいます。
そして程普・黄蓋・朱治など多くの優れた人物が馳せ参じ、
孫堅軍は屈強な軍隊へと変化していくこととなります。
そして孫堅軍が大きく力を発揮するのが董卓との戦いだったのです。
陽人の戦い
董卓が宮中の混乱に乗じて、新皇帝として献帝(劉協)を擁立し、
好き勝手な独裁政治を行い始めると、董卓打倒の動きが活発化していくこととなります。
その結果、袁紹を盟主とした反董卓連合が結成されるわけですが、
この時に反董卓連合に参加していた袁術の命により、
孫堅もまた反董卓連合に参加することとなったのでした。
そして孫堅が大活躍したのが陽人の戦いですね。
これは胡軫・呂布・華雄らを見事なまでに打ち破った戦いでした。
実際は呂布が仲が悪かった胡軫をはめたことで、
「勝手に自滅していった」と言った方が多分正確ですが・・・・
そして華雄は二人の狭間で翻弄されて無駄死にする始末!
勢いに乗った孫堅の軍勢はそのまま洛陽へと進出し、
洛陽で呂布と戦いますが、呂布を見事に蹴散らして洛陽入場を果たしました。
ただ洛陽は既に長安への遷都が行われた後であり、
董卓により既に荒らされまくり、焦土と化していました。
また皇帝の墓や霊廟が董卓によって暴かれていた現状を見て、
それをしのびなく思った孫堅は、暴かれた墓や霊廟を修復してあげたのでした。
その後の孫堅は袁術の元へと帰還をしています。
何故袁術の元へと引き上げたかというと、実質的孫堅の主人が袁術だったからですね。
董卓との戦いも主人であった袁術の命令だったから参加したようなものでしたし、
洛陽入場したものの得る物もなく、
一区切りついたタイミングで戻ったといったところでしょう。
豫洲攻防戦(袁術・孫堅VS周昕・周昂・周喁)
袁紹と袁術の勢力争いに孫堅も巻き込まれていくこととなります。
当時の二大勢力と言えば、
袁紹と袁術が家柄的に飛びぬけていたのもあり・・・
袁紹は周兄弟(周昕・周昂・周喁)を豫洲に刺史や太守として派遣し、
袁術によって豫洲刺史に任じられていた孫堅と自動的に戦うことになっていきます。
周兄弟の知名度は結構低いですが、
かなり優秀な兄弟だったというのはあまり知られていません。
特に曹操は非常にお世話になった兄弟といってもいいかもしれませんね。
周昕・周喁は曹操が困ったときに兵士を貸した提供したこともありますし、
周喁に関しては曹操の軍師を務めたことがあるほどです。
周兄弟は袁術・孫堅に対して一進一退の攻防を繰り広げますが、
最終的に周昂が守る九江郡(周喁の援軍あり)は、孫堅の甥にあたる孫賁によって奪われ、
周昕が守る丹陽郡は呉夫人の弟である呉景によって奪われてしまったのでした。
黄祖との戦いでのあえない最後を迎えた孫堅
蒼天航路(6巻224P)より画像引用
191年に入ると、
袁紹と袁術の勢力争いは激化します。
そして袁紹と同盟関係にあった劉表を倒すべく、
袁術はここでも孫堅を利用したわけです。
孫堅は袁術に臣下的な立場なので、
袁術の命には逆らえず、劉表討伐に乗り出したのでした。
孫堅も各地で功績をあげつつづけてきた人物でもあったので、
「劉表など恐るるに足らず!」みたいなこところもあったでしょう。
実際孫堅が劉表の拠点であった襄陽へ勢いのまま攻め込みますが、
ここで孫堅を迎え撃ったのが黄祖でした。
しかし孫堅の猛攻の前にあっさりと黄祖は敗れてしまいます。
ここまではよかったのですが、その後予期せぬことが起こってしまいます。
孫堅が油断していたことも原因でしょう。
襄陽城外にある硯山を一人で出歩いた際に、
そこを黄祖の兵士に弓で狙われ、矢が命中したことで孫堅は絶命したのでした。
ただ孫堅の死に方には諸説あります。
孫破虜伝「典略」では、逃げる黄祖を追っていた所を
茂みに隠れていた黄祖の兵士が射抜いたといった書き方がされていますし、
孫破虜伝「英雄記」では、
劉表の臣下であった呂公の伏兵による落石によって死んだと書かれています。
ちなみに三国志演義ではこの落石が採用されているのは有名です。
どちらにしても「江東の虎」と恐れられた孫堅の、
あまりにもあっさりした最後だったことは間違いありません。
ちなみに三国志を著した陳寿は、
「孫堅は忠義と勇壮さを兼ね備えた烈士であった」と高い評価をしています。
これにて孫堅の物語は終わり、新たにここから孫策の物語が始まっていくのでした。