周瑜の跡を継いだのは「天下三分」を提案した魯粛でした。

 

 

そのお陰で曹操・孫権・劉備の天下を三つに分けて争う三国時代が完成したわけですが、

 

あまりに劉備が孫権との約束を反故にするものだから、

呉蜀での争いが勃発したりするわけで・・・

 

 

そんな中で魯粛がこの世を去ってしまいます。

 

そして魯粛の跡を継いだのが、

「男子、三日会わざれば刮目して見よ」の語源を生み出した呂蒙でした。

 

そんな呂蒙も荊州奪還した後に間もなくして病死してしまったわけです。

 

ここで呂蒙の後釜を任されたのが陸遜であり、

長く孫権を支えていくこととなります。

魯粛の後任(後継者)は呂蒙ではなく、実は厳畯(げんしゅん)の予定だった!!

若かりし頃の陸遜(りくそん)

一般的に陸遜と言う名前で知られていますが、

もともとは陸議という名前でした。

 

 

正式な改名時期については不明ですが、

 

「陸遜字伯言、呉郡呉人也。本名議、世江東大族。」

と三国志(呉書)に記載されている点からも間違いないでしょう。

 

ただ呉書の「陸遜伝」では、陸遜という名前で統一されていますから、

正式な改名時期も不明なので、最初から陸遜という姓名で統一したいと思います。

 

 

陸遜は「呉の四姓」の一角をなす名家出身であり、

他には「顧氏」「朱氏」「張氏」が呉の四姓に数えられています。

呉の四姓(顧氏・陸氏・朱氏・張氏)

 

 

陸遜が幼い頃に父である陸駿を亡くしてからというものは、

一族の陸康に世話になっていたようです。

 

陸康と言えば廬江太守に任じられた人物であり、

袁術の命によって孫策が攻め込んできた際に争った人物でもあります。

 

その際に陸康の息子であった陸績と陸遜を安全の為に、

故郷であった呉郡呉県へと一族を連れて避難させていますね。

 

 

陸績・陸遜が呉郡呉県に移った後、

陸康は病死してしまうわけですが、

 

この時の孫策との因縁から陸家と孫家の溝が大きく広がってしまったわけです。

 

「呉の四姓」であった陸家が孫策と対立したことで、

延長線上に顧・朱・張家の者達とも孫策は対立していくこととなります。

 

 

しかし孫策が亡くなり、孫権が跡目を継ぐと、

「呉の四姓」の者達を政権内へと次々と招く懐柔策をとり、

 

最終的な決め手として陸遜が孫権に仕官したことで、

因縁関係に終止符を打つ形となったわけです。

 

 

まぁ終止符を打ったとは書きましたが、

陸遜の中でも少なからずの因縁は残っていたままだったでしょう。

 

しかし揚州での孫家の基盤が確立されていったからこそ

これ以上抵抗することを無意味に思ったというのも理由だと思います。

 

それだけ孫家の力が大きくなっていた証拠でもありますね。

孫氏と名士の対立&和解の歴史(孫堅・孫策・孫権)

山越討伐で手柄をあげ、孫策の娘を娶る

孫権が治めた揚州には山越族が数多くいましたが、

 

会稽郡で潘臨という人物が中心となって反乱を起こした際には、

孫権の命によって陸遜は潘臨討伐を行っています。

 

陸遜は見事に潘臨を降して仲間に引き入れ、

降った者達の中から二千人の兵士を編入させたといいます。

 

 

また216年に孫権の背後を襲うべく、

山越の頭目であった費桟ひさん尤突ゆうとつに対して曹操は印綬を与えたことをきっかけに、

 

二人は丹陽・鄱陽郡で反乱が起こしたこともありました。

 

この反乱に対して孫権は、陸遜・賀斉がざいに討伐を命じ、

二人は見事に尤突を撃破しています。

 

一方の費桟はというと。尤突撃破の後に、

陸遜が単独で撃破したことで反乱は終息を迎えます。

 

孫権は陸遜が確実に結果を残していたことを大きく評価し、

孫策の娘を陸遜に嫁がせて一族に迎えています。

 

 

実際のところは、陸遜は「呉の四姓」であり、

孫策と陸康の時からの因縁が強くあったからこそ、

 

孫権は陸遜と婚姻関係を結ぶことで、

陸一族を外戚にしたというのが正しい所だと思いますけどね。

 

名声的に孫家よりも「呉の四姓」の方が圧倒的に優れた一族だったわけですから、

「呉の四姓」の力を借りる為には婚姻関係を結ぶのが手っ取り早いですし・・・

 

 

実際孫策の娘は他にもおり、陸遜だけでなく、

「呉の四姓」に数えられた顧邵(顧雍の息子)の元にも嫁いでいますからね。

陸遜によって嵌められた関羽

横山光輝三国志(41巻85P)より画像引用

 

陸遜の名が一躍天下に響くのはこの関羽討伐でしょう。

 

関羽は呂蒙が荊州(呉領)の指揮を孫権から任されている間、

関羽は同盟を結んでいるとはいえ呂蒙を警戒していました。

 

何度も荊州を巡って過去に争ってきたのですから、まぁ当たり前ですね。

 

 

そんな折に呂蒙は病気にかかり、建業へと戻ることとなります。

そして自分自身の代わりとして、陸遜を後釜に置くように孫権に進言したのです。

 

 

また陸遜を自分の後釜に推薦した理由は、

 

「陸遜が才能豊かな人物であるにも関わらず、

今現在において知名度が低い事で関羽は油断するだろう

という考えがあったからでした。

 

そして孫権は呂蒙の意見を採用して、

呂蒙の後釜に陸遜を置いたわけです。

 

 

現地に着いた陸遜がまず行ったことは、

関羽を褒め称えて媚びへつらう様子を見せたのでした。

 

関羽はまんまと陸遜の罠にはまり、

後方を守らせていた兵士らを曹仁が守る樊城攻撃へと回してしまいます。

 

 

この現状を陸遜が孫権に知らせると、

手薄になった関羽の背後をつくように呂蒙・陸遜に対して命令!!

 

病気で戻ったはずの呂蒙がすぐにまた参加できたところを見ると、

関羽の警戒を解くための呂蒙の仮病であったか、軽い病気だったかのどちらかでしょうね。

 

 

とにかく関羽の背後をついて荊州へと攻め込んだ呂蒙・陸遜は、

傅士仁・麋芳の裏切らせる事に成功し、あっさりと荊州は陥落してしまいます。

 

関羽は荊州が陥落したことを知ると、古城であった麦城に籠りますが、

最終的に捕らえられて処刑されてしまうのでした。

 

 

それから間もなくして呂蒙が亡くなりますが、

正式に陸遜が呂蒙の跡を立派に継いで呉を支えていくこととなります。

「関羽の死」に関わった者達の三国志演義での末路

夷陵の戦い(劉備VS陸遜)

横山光輝三国志(44巻133P)より画像引用

 

関羽を処刑されたことを知った劉備は、

222年に関羽の復讐戦として呉へと侵攻を開始します。

 

この時に趙雲は私怨をもって呉と戦う事に反対したようですが、

劉備は聞く耳持たずに自ら出陣していくことに・・・

 

ちなみに関羽が処刑されてから少しした頃に劉備は皇帝になってますね。

つまり皇帝自らの出陣という事になるわけです。

 

 

劉備は快進撃を続けるものの、

それを迎え撃つように命令を受けたのは陸遜でした。

 

陸遜は大都督に任じられて全軍の指揮をとるわけですが、

どんな罵声を浴びせられても陸遜は動かず様子をうかがいます。

 

 

陸遜の対応に味方からも不満の声が上がる中でもじっと我慢し、

 

劉備が完全に油断したタイミングで一気に攻撃をしかけ、

火計を用いて劉備を破ったのでした。

 

 

この夷陵の戦いでは、後に「解煩兵かいはんへい」と呼ばれる特殊部隊が生まれ、

劉備を討ち取る寸前まで追い詰めて活躍したとも伝わってますね。

敢死兵・解煩兵・無難兵 -呉の特殊部隊-

 

夷陵で惨敗を喫した劉備は白帝城まで命からがら逃げるものの、

劉備率いる蜀軍の受けた被害は半端なものではなく、国力回復に長い時間を要する状態となったわけです。

 

敗北した劉備は改めて孫権は和議を結んだことで、この戦いに野終止符が打たれます。

 

 

 

だが劉備との戦いで呉も疲弊していると考えた曹丕は、

孫権との盟約を破って、呉へと三方面からの侵攻を開始してきたのです。

  • 濡須口の戦い(曹仁)
  • 洞口の戦い(曹休・張遼・臧覇等)
  • 江陵の戦い(曹真・張郃・徐晃・夏侯尚・満寵等)

 

 

曹仁は朱桓が、曹休・張遼・臧覇らは全琮・徐盛が、

曹真・張郃・徐晃・夏侯尚・満寵らは朱然が見事に対応して、

 

魏の三方面からの侵攻は打ち砕かれることとなりますね。

孫権から絶大なる信頼を得た陸遜

劉備が夷陵の敗北が心のストレスとなって白帝城で没すると、

 

劉禅は諸葛亮のお墨付きもある鄧芝を派遣し、

鄧芝を気に入った孫権は蜀呉同盟を改めて締結しています。

 

劉備が死んだことで、劉備と結んでいた和議を破棄して蜀へ攻め込むかどうか、

孫権は色々考えていたからですね。

 

蜀側としてもそういう危機の中にあったからこそ鄧芝を派遣したわけですけど・・・

呉との関係修復を成し遂げ、文武両面で活躍した鄧芝

 

 

また228年の魏と戦った際は、

周魴によって誘い出された魏軍を石亭で大いに打つ破っています。

 

石亭での指揮を任されたのは陸遜で、

この戦いで魏軍を指揮していた曹休はなんとか逃げ延びる事に成功するも、

 

石亭の戦いの敗北のショックから立ち直ることはできず、

それが元で背中に大きな腫物ができ、そのまま死んでますね。

七通のラブレターを送ってまで曹休を信じ込ませた周魴

 

 

翌年孫権が皇帝に即位すると、

陸遜は上大将軍・右都護に任じられています。

 

そしてこれを機に陸遜は戦いの総大将(大都督)を任されるというよりも、

政治的な面で孫権を支えていくケースがふえていくこととなり、

 

244年には丞相に就任していますね。

「二宮の変」による不遇の末路

若くして孫策の跡を継ぎ、魏蜀と対等に渡り合い、

皇帝にまで上り詰めた孫権ですが、

 

年を取っていくにつれて、その英明さに陰りが見え始めてきます。

 

 

その筆頭と呼べるものは孫和・孫覇の後継者問題ですね。

つまり「二宮の変」と呼ばれるものです。

 

 

もともと跡継ぎ候補であった孫登がなくなったことで、

孫和を太子に据えたわけですが、

 

孫和を可愛がる一方で、孫覇まで可愛がり出します。

 

普通に我が子を可愛がるのは良い事ですが、それがあまりに度を超えており、

太子と庶子の区別なく、同じ待遇を与えたりしたわけです。

 

 

それによって孫和派と孫覇派で国内が分裂してしまう有様に・・・・

 

 

上の図を見てもらえばわかりやすいですが、

陸遜は太子であった孫和を支持し、孫覇派と対立してしまう事態となります。

 

孫覇派には歩隲・呂岱・呂拠・孫弘といった人物がいたり、

孫覇と屈託した楊竺・全寄・孫奇・呉安らが孫和廃嫡を画策したりしたわけです。

 

 

そのような中で孫和廃嫡の声が強くなっていくと、

陸遜は流罪の憂き目にあい、陸遜同様に孫和を支持した者達も処罰されていきます。

 

それだけでは気持ちが収まらない孫権は、

執拗に何度も陸遜を責め立てたことで、陸遜は憤死してしまいます。

 

 

最終的に「二宮の変」がどういう結末を迎えたのかというと、

 

孫和派の者達が次々と処罰されていったことで完全に孫覇派が優勢になるも、

歩隲・全琮の相次ぐ死によって孫覇派も勢いを失っていくことに・・・

 

そして孫権は孫和を廃嫡・幽閉し、一方の孫覇は死を命じます。

また一方で太子には孫和・孫覇の弟にあたる孫亮に決めていますね。

 

 

陸遜は後に息子の陸抗によって名誉回復させられるものの、

呉を支え続けてきた大功臣としては、あまりに不遇な最後だったかなと思います。

「二宮の変」の片棒を担ぎ、不遇の末路を辿った孫和

「二宮の変」で孫和(太子)と争った孫覇

陸遜の評価

陸遜は主君(曹操・劉備・孫権等)を除いた場合、単独で「伝」をたてられています。

 

これは陳寿の三国志の中でも異例で、

陸遜以外には諸葛亮しかいないぐらいのことなんですよね。

 

 

「三国志」を著した陳寿も陸遜に高く評価を与えています。

「劉備の名は天下に知れ渡っていた。

そんな劉備に対して無名に近かった陸遜が謀を駆使して劉備を打ち破った!

 

陸遜の高い才能は説明するまでもないが、

忘れてはいけないのは陸遜の才能を見抜いて起用した孫権も凄いの一言に尽きる。

 

陸遜は忠誠を尽くして主君に仕えたが、最後は不遇の死を迎えてしまった。

しかし陸遜のようなものを社稷の臣と言うのだろう。」と・・・

 

 

 

また唐の時代には、「武成廟六十四名将」の一人に選ばれているほどで、

 

「武成廟六十四名将」は名前から見ても大体想像がつくと思いますが、

過去の優れた人物を厳選して64人選んだというものですね。

 

 

ちなみに陸遜以外で三国時代から選抜された者を挙げると、

張遼・鄧艾・関羽・張飛・周瑜・呂蒙・陸抗の7名しかいません。

 

このことからも陸遜がどれだけ高い評価を与えられたか分かりますよね。

 

 

まぁ後漢枠としては皇甫嵩・段熲、晋枠として杜預・羊祜・王濬が選ばれたりしているので、

このあたりまでは三国時代と数えていい気がします。

 

ただ一つ気になる点としては、

諸葛亮が選出されていないのは個人的には少し納得がいかないですね。

 

 

他にも突っ込みたくなる点としては三国時代ではないんですが、

 

劉邦時代の韓信もこれには選ばれていませんし、

春秋戦国時代の孫武・楽毅などが選ばれていない点も個人的には結構納得できないものがありますけど・・・

 

 

まぁ「武成廟六十四名将」について語るとかなり長くなってしまうので、

このあたりで陸遜の話に戻しますが、

 

三国志に注釈をつけた裴松之は、

陸遜に対して非常に悪い評価を与えています。

 

 

陳寿と比較するとまさしく真逆といっていいほどです。

 

 

とにかくとことん陸遜の事を酷評しているのですが、

 

「陸遜の子孫が孫の代に途絶えたのは、

全て陸遜のせいである!」と子孫が途絶えたことも全て陸遜のせいにされています。

 

 

なぜ裴松之がここまで陸遜を酷評したのかは不明ですが、

一言で片づけるなら、裴松之は陸遜があまり好きでなかったのでしょう。

 

この一言以外に思い浮かびませんしね。

裴松之から嫌われた陸遜