関平とはどんな人物なのか(正史と三国志演義の違い)

関平は、名将・関羽の子として知られる人物です。

 

しかし実際には、正史における記録は非常に少なく、

現在広く知られている「関羽の養子・若武者関平」というイメージの大半は『三国志演義』によって作られた姿です。

 

そのため、まずは正史三国志における関平の実像を整理し、

その後に演義との違いを比較していきます。

正史三国志における関平

まず最も重要なのは、

正史において関平は関羽の実子として記録されている点です。

 

関平は有名な人物であるにもかかわらず、正史三国志の中の記録は驚くほど少ない人物です。

独立した列伝も存在せず、主に「蜀志」関羽伝の中で触れられるのみとなっています。

 

そのため、

  • いつ生まれたのか
  • 母親は誰なのか
  • どのような功績を残したのか
  • どの程度の地位にいたのか

といった詳細はほとんど分かっていません。

 

「蜀志」関羽伝には、

「子平、与羽倶為呉所執、皆見害」

(子の関平は関羽と共に呉軍に捕らえられて共に殺された)

と記されています。

 

上の記録は限られた正史での関平の記録ですが、

ここには関平は明確に「関羽の子」とされており、養子であるという記録は一切存在しません。

 

現在でも「関平=養子」という印象が強いのは、後世の三国志演義の影響によるものです。

ただし、関羽の側近として行動しており、荊州防衛戦の最期まで関羽に従っていたことが確認できます。

麦城での最期

建安二十四年(219年)、関羽は樊城攻略で曹操軍を大いに苦しめました。

 

しかしその背後で、呉の呂蒙・陸遜が荊州へ侵攻します。

呂蒙は白衣渡江によって荊州を急襲し、関羽軍の拠点を次々に制圧しました。

 

孤立した関羽は麦城へ退却しますが、最終的に逃走中に潘璋配下の馬忠に捕らえられます。

この時、関平も関羽に従っており、父子ともに処刑されました。

 

正史における関平最大の記録は、

まさにこの「関羽と運命を共にした」という点にあります。

三国志演義では関定の子として登場

三国志演義では、関平は関定という人物の子として登場します。

 

劉備たちが袁紹のもとへ向かう途中、関定が関羽の義を慕い、

「ぜひ息子を連れていってほしい」

と願い出たことで、関羽は関平を養子に迎えることになります。

 

ここから、「関平=関羽の養子」というイメージが広く定着しました。

しかしこれは完全に演義の創作設定です。

 

また演義の関平は若き武将として数多くの戦場で活躍します。

特に、

  1. 新野防衛戦
  2. 長坂坡の戦い
  3. 赤壁後の戦い
  4. 荊州防衛戦
  5. 樊城の戦い

などで関羽軍の主力武将として描かれています。

 

また関羽の側近・後継者的存在として描かれる場面も多く、

演義ではかなり重要な役割を与えられている人物です。

 

しかし、これらの多くは創作・脚色であり、正史では確認できません。

関興(関平の兄弟

関羽には関平以外にも関興という子がいました。

ただし、関興についても演義と正史ではかなり印象が異なります。

①正史の関興

正史では関興は若くして死去したとされ、大きな軍功の記録はほとんどありません。

 

ただし、

  • 関羽の子として期待されていた
  • 諸葛亮から評価されていた

ことなどは記されています。

②演義の関興

三国志演義では、

  • 張飛の子・張苞との名コンビ
  • 蜀漢次世代武将の中心
  • 北伐で大活躍

など、非常に華々しい人物として描かれていますが、これも演義による大幅な脚色です。

関羽の息子という事もあり、関平同様に大きく演義で活躍の場を与えられたという事になりますね。

関帝廟に祀られる三名(関羽・関平・周倉)

関羽の側近としても良く知られる周倉ですが、

正史には登場せず、三国志演義によって創作された人物になります。

 

演義では、

  • 黄巾賊出身
  • 関羽に心酔
  • 常に青龍偃月刀を担ぐ
  • 最後まで関羽に付き従う

忠義の象徴のような人物として描かれています。

 

麦城陥落後、関羽の死を知った周倉が自害する場面も演義による創作になります。

 

ただ現在世界中に点在する関帝廟では、

中央に関羽が祀られ、その左右に関平と周倉が配されることが多くあります。

 

これは、

関平=血縁による忠義
周倉=主君への献身的忠義

を象徴する存在として信仰されてきたためです。

 

特に民間信仰においては、三人は「義」の象徴として扱われるようになりました。

 

ただこれまで述べてきたように、

正史における関平は、決して演義ほど派手な活躍を残した人物ではありません。

 

しかし、関羽の嫡流の子であり、

荊州最後の戦いまで父に従い、最期まで運命を共にしたという点で、

蜀漢における「忠義」の象徴的存在の一人だったことは間違いありません。

 

そして三国志演義は、その限られた記録をもとに、「若き忠臣・関羽の後継者」という理想像を与えたことで、

関平は後世に広く知られる存在となっていったのです。

正史と演義の違いまとめ

項目 正史 三国志演義
関平の立場 関羽の実子 関羽の養子(関定の次男)
活躍記録 非常に少ない 多数の戦場で活躍
性格描写 不明 忠義に厚い若武者
最期 関羽と共に処刑 関羽と共に捕縛・処刑
周倉 存在しない 関羽の忠臣
関興 早世 蜀漢の名将として活躍

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