関羽の死&荊州喪失
「益州入手・漢中入手・漢中王」
と劉備にとっていいことが続いたわけですが、
漢中王のタイミングで荊州を投下していた関羽が、
樊城への侵攻を開始します。
これが劉備の指示だったのか関羽の独断だったのかはよく分かっていませんけど、
とりあえず関羽は侵攻を開始したわけです。
関羽には天も味方して大雨が降ったことで、
援軍としてかけつけてきた于禁の部隊が戦わずして壊滅してしまうなど、
関羽の勢い留まること知らずといった感じで・・・
曹操ですら関羽の勢いに恐れを抱き、
許昌から遷都を考えたほどでした。
ただ曹操が孫権と手を結んだことで挟み撃ちに合い、
関羽は呂蒙らに捕らえられて処刑されてしまいます。
これによって劉備は、
荊州を失ってしまう事になるわけです。
後漢滅亡&劉備の蜀漢誕生
関羽の死にショックを受けた劉備でしたが、
そんな矢先に長らくライバルであった曹操が病死したことで、
悲しいなんて言ってられない状況になります。
なぜなら曹操の跡を継いだ曹丕は、
献帝から強制的に禅譲された形で、
皇帝に即位して魏を建国したからです。
後漢の末裔を名乗る劉備の立場としては、これを認めるわけにはいかず、
劉備も翌年に皇帝即位することに・・・
つまり蜀漢の誕生なわけです。
ちなみにですけど前漢・後漢と分ける意味で、
「蜀」や「蜀漢」なんて言われたりしますが、
正式名称は漢王朝の復興なので単純に「漢」という名称になります。
ただ後世の人達が区別する為に劉備の「漢」を蜀漢、
その延長線上として「蜀」になったというだけのお話ですね。
ちなみに「季漢」と呼ばれることもありますが、
「季」には末っ子といった意味があり、
「末っ子の漢王朝」といった意味で使われています。
張飛の死
皇帝に即位した劉備でしたが、
関羽死亡のショックから立ち直れずにいました。
それは劉備だけでなく、
張飛も同じ気持ちだったのは言うまでもありません。
劉備も「呉より先に魏を倒すべきだ!」というのは理解できていたものの、
どうにもできない感情が心の底から湧き出ていました。
最終的に多くの者達が反対する中、
劉備は関羽の仇を討つべく東征を開始!!
この時に反対した者の記録として、比較的有名なのは以下の三人だと思います。
李意其は少しマニアックかもしれませんが・・・
- 先に討伐するのは魏である」と訴えた趙雲→江州督として留守番
- 勝利を得ることは難しいと言った秦宓→投獄
- 大敗を喫して、劉備が死ぬと占った李意其(李意期/りいき)→意味が理解できなかった劉備
ちなみに諸葛亮は劉備の呉討伐に対して反対などはしてないですし、
諸葛亮の天下三分の計実現にはむしろ荊州が必須でした。
荊州を所持していることで、二方面侵攻も可能になりますからね。
そういう意味でも、
「劉備様なら荊州を奪い返してくれるのでは?」
といったような感情があったのかもしれませんね。
まぁ諸葛亮が何も言わなかったのは、
役職上の問題もあったと思いますけどね。
基本的にこの時の諸葛亮は軍事面に口を挟むことが、
ほとんどなかったと思われますから・・・
呉討伐に乗り出すことになった劉備ですが、
関羽の復讐戦に誰よりも意欲を燃やしていたのは、
いわずもがな張飛でした。
ただ張飛が関羽の復讐戦に参加することはなく、
部下であった范彊・趙達によって殺害されてしまいます。
二人はそのまま張飛の首を持って、
関羽の仇である孫権の元へと落ち延びていくわけですが、
張飛死亡の報告を聞いた劉備は、引くに引けない戦いに突入していくのでした。
夷陵の戦い
武陵蛮の沙摩柯を味方につけるなど、
劉備軍優位に運んでいたかと思いきや、
劉備が油断していたところを、
陸遜は大掛かりな火計を実行!!
これにより劉備軍は大敗!
この戦いで総指揮官を任されていた馮習をはじめ、
副将を任されていた張南までもが討死・・・
傅彤は劉備を逃がす為に奮闘するも討死!
。
傅彤の懸命の働きの後に劉備を命懸けで守ったのが、
陳到率いる白耳兵の活躍のお陰だと言われたりしてます。
そもそも趙雲は江州督として留守番だったので、
趙雲に次ぐほどの高い評価を受けていた陳到が付き従っていたのかもしれませんね。
趙雲も一応永安まで助けにきたらしいですけど、
それはもう劉備が危険からほとんど脱出した後なんでなんとも・・・
白帝城にて逝く
白帝城に逃げ延びた劉備でしたが、
関羽・張飛の復讐は果たせないばかりか、荊州を取り戻すこともできませんでした。
そして劉備は過去一番の大惨敗をしてしまったことで、
劉備の気持ちは完全に塞ぎ込んでしまいます。
「自分自身が年を取り過ぎた。
そして張飛・関羽も既にもういない。
また今回の戦いで多くの兵士や優れた者達も失ってしまった・・・」
劉備にとって全てを失ってしまったように感じたことでしょう。
そして多くの者達の反対を押し切って呉討伐に乗り出したこともあってか、
成都に戻る事すらできずに白帝城にて悩み続けます。
そんな中で劉備は心の病が体を蝕んでいくのに、
時間はかかるものではありませんでした。
そんな中でも劉備は最後の仕事とも言うべきか、
呉の孫権と和睦を結びつつ、諸葛亮に劉禅の補佐を任せたのでした。
劉永・劉理ら息子達を呼んで、
「諸葛亮殿をこれからは親と思って慕いなさい!!」
と言った話が残っていたり、
「劉禅が皇帝たる素質を持っていたならば、
劉禅を支えてあげて欲しい!
逆に皇帝たる素質がないようなら、
劉禅に代わって君が国を治めて欲しい!」
と国を憂いて諸葛亮に後の事を任せた話は有名ですね。
これらの言葉は諸葛亮の謀叛を防ぐために劉備が言った言葉だと言われたりもしますが、
私は純粋に捕らえてよい者だと思っています。
何故なら劉備と関羽・張飛の関係性からも分かる事ですが、
血縁以上に大事なものが世の中にあることについて、
劉備は誰よりも知っていたのではないかと・・・
また死に際だからこそ、
劉備の本心が素直に出たと解釈するのが普通でしょう。
そして劉備は失意の中で、生涯に幕を降ろします。
そんな劉備を陳寿は次のように評しています。
「度量が大きく、礼儀をもって人に接し、
人を見る眼力は優れていた。
そんな劉備は漢の高祖(劉邦)にも似ている風格を兼ね備えており、
英雄たる器の持ち主でもあった。」と・・・