「三国志演義」に描かれる関羽の最期
横山光輝三国志(42巻60P)より画像引用
魏と呉の挟み撃ちにあってしまった関羽は、
公安城の傅士仁だけでなく、
荊州の本拠地である江陵城を守る麋芳までもが呉に寝返った事で、
敗走に敗走を重ねていくことになります。
ただ麦城に辿り着いた者達は極僅かであり、
あっさりと包囲されてしまいます。
まさに麦城は「風前の灯」とも言える状況に陥っていたのでした。
孫権はこのまま関羽を殺してしまう事を惜しみ、
そこで関羽の死を惜しむ孫権が、
諸葛瑾を使者として送ってきたわけです。
諸葛瑾と面会した関羽は、
「劉備様からは長年良くして頂いた。
例えここで朽ち果てる事になろうとも、
劉備様を裏切って降伏する事はありえない!」
と諸葛瑾に伝えたのでした。
関羽の意志が強い事を知った諸葛瑾は、そのままにその言葉を伝えたといいます。
諸葛瑾からの言葉を聞いた孫権は、
「関羽こそ誠の忠臣である」と関羽を褒めたたえると共に、
孫権の中で「関羽を降伏させる選択肢」が消え去った瞬間でもありました。
そして最終的に関羽は、
罠にかかったことて捕縛されます。
また関羽は降ることもなく、
そのままに処刑されてしまったという流れになります。
「 虎の娘を狗(犬)には嫁れぬ」
横山光輝三国志(40巻115P・116P)より画像引用
諸葛亮は荊州の守りを関羽に任せる際に、
有事の際は必ずに孫権を手を結び、
曹操に敵を絞るようにと忠告しています。
これは諸葛亮が劉備を助けるべく、
益州へと出向いていった際に関羽に残した言葉でした。
そして諸葛瑾が麦城に降伏としてやってくる以前に、
諸葛瑾が「関羽の娘と孫権の息子の縁談」を持ち掛けた事がありましたが、
「 虎の娘を狗(犬)には嫁れぬ」
と孫権を馬鹿にしたような形で断っています。
断るにしても他に言い方があったでしょうし、
これにより孫権と関羽の間には大きな溝が生まれてしまったのでした。
この提案はもともと曹操から孫権に同盟の使者が訪れた際に、
諸葛瑾が考えた提案であり、
孫権がそれを承諾したことで持ち掛けられた縁談だったのです。
孫権としても荊州の関羽が味方につけば、
曹操と戦う事になってもどうにかなるという目論見があったわけで、
しかしこの件があったことで、
孫権は曹操と結ぶ道を選択したという流れになります。
関羽が最終的に荊州を失い、処刑されてしまったのは、
完全に関羽の判断ミスの結果だと言えるかと思います。
「正史」に描かれる関羽の最期
蒼天航路(36巻207P)より画像引用
関羽が呉に背後をつかれる形で荊州を失い、
孫権によって処刑された事実は三国志演義と変わりはありませんが、
関羽が麦城に立て籠もってから処刑されるまでの間に、
「孫権が諸葛瑾を使者として遣わした」という記載はありません。
ましてや降伏を勧めたという話がそもそもありませんね。
ただそれ以前に関羽の娘と孫権の息子の縁談が、
持ち掛けられたのは実際の出来事であり、
三国志演義であろうと実際の出来事であろうと、
関羽がこの誘いを無下に断った事で、
関羽の命運は既につきていたのかもしれませんね。
ちなみに「 虎の娘を狗には嫁れぬ」という言葉は、
三国志演義にだけ登場する言葉ではありますが、
正史でも「関羽が縁談を断っていること」は普通に記載されています。
ただ三国志演義であれ、
「 虎の娘を狗には嫁れぬ」
の言葉を関羽が使ったのかを考えてみました。
何故なら三国志演義であれ、
あまりにしっくりこない関羽の対応だからです。
諸葛亮が呉と結んで魏にあたるように忠告した際も、
関羽はしっかりと頷いていましたから・・・
「虎」の代名詞で言えば、
どちらかというと孫権ら孫呉の代名詞です。
その為に「蒼天航路」でも孫権が幼い時から仲良くしていた虎が登場しますし、
孫尚香が劉備に嫁ぐ際も虎に乗って登場しているという描写がされていたりもします。
「虎」は最強の動物とされていましたから、
関羽が単純に一番強い虎を自身に置き換えただけの可能性もありますが、
様々な伏線を三国志に取り入れている羅貫中ですから、
「虎狩り」が好きだった孫権に掛けて、
関羽にこのような言葉を使わせた可能性も高いと考えました。
もちろんですがこの場合の「虎」は関羽になり、
後に関羽討伐に乗り出し、その結果として捕らえて処刑したことからも、
「関羽狩り(関羽討伐)」に繋げていった可能性はあるかなと思ったりしています。
民間伝承
三国志に登場する人物が、
現在では様々な所での神様として登場していたりしますが、
関羽もその一人であり、
「商売の神様」として世界中で祀られています。
他にも「酒の神様」として曹操であったり、
「医者の神様」として華佗であったりと・・・
関羽が生存してた頃でさえ関羽が大きく慕われていたという話があったりしますが、
処刑されてしまったことで「神」にまで昇格してしまったのでしょうね。
またその一助をしたのが曹操でもあったのだと思います。
「曹操は洛陽にて、
諸侯の礼をもって関羽を葬った」とあるように、
曹操は孫権から届けられた首を国葬級の扱いで取り行ったわけです。
そして関羽崇拝などもあいまった流れで、
次第に「神格化」されていったのだと思われます。
また孫権からの縁談を断った関羽の娘についてですが、
「関羽が捕らえられて処刑されてからも生存していた」
という民間伝承があったりもします。
ゲームなどでも登場したりすることもある為に、
既に馴染み深い名前でもあったりしますが「関銀屏」ですね。
関銀屏は父親である関羽の仇を討つために、
関羽同様に武芸の達人であった「趙雲に弟子入りして腕を磨いた」と言われています。
まぁその後に「関銀屏が孫権を討った」という事はありませんし、
あくまで民間伝承の一つにそういった話があるといったものになります。
最後に余談ですが、
関銀屏は武勇に優れた女性へと成長しただけでなく、
容姿も大変に美しく、
関銀屏への求婚者も後を絶たなかったとか・・・