魯粛(子敬)
魯粛が生まれた魯家は、裕福な家系でした。
そんな所で生まれた魯粛でしたが、
困っている人を助け、地方の名士と交友を盛んにしていました。
その為にはお金を惜しまず、豪快に使っていました。
また体格が良く、武芸に達者でした。
剣や弓矢の腕に秀でていました。
「実際に魯粛が武芸に達者だった」
という話も残っています。
もともと魯粛は袁術に仕えますが、
袁術に見切りをつけた魯粛は、故郷の血気盛んな若者を率いて、
知人であった周瑜の元へ向かいます。
その後、孫策が江東の地で、
袁術から独立し、勢力を拡大していきます。
周瑜からの推薦もあり、魯粛は孫策に仕えるべく、
これまで共にしてきた若者達を率いて長江を渡ろうとします。
そんな魯粛達の前に、
兵士を率いた役人が行く手を阻んできます。
その時魯粛は、役人・兵士達に対して、弓矢を率いて恫喝します。
またそれだけではなく、続いて盾を地面に突き刺し、それを弓矢で貫きます。
この魯粛の行動を見た役人・兵士達は
魯粛を恐れて、逃げていきました。
また魯粛は豪胆なだけでなく、
兵法を好み、兵法について学んでいました。
そんな魯粛を見て、
周りは「魯家の狂児」と呼んでいました。
魯粛と周瑜
孫堅が劉表の家臣である黄祖に討たれ、
孫策・周瑜が袁術にお世話になっていました。
そんな周瑜が袁術のもとを離れて、
居巣県の長になった頃の話です。
ある時周瑜は資金や食糧が不足してしまいます。
その時に周瑜は、裕福であった魯粛の元を訪ね、援助を求めます。
援助を求められた魯粛は、
持っていた2倉のうち、半分である1倉をそのまま周瑜に援助します。
これがきっかけとなり、
周瑜と魯粛は交友を始めたというわけです。
魯粛と関羽
劉備が蜀の地を手に入れた時の話ですが、
なかなか荊州を孫権に返さない劉備・関羽に対して、
魯粛が1対1で対話します。
単刀赴会(たんとうふかい)と呼ばれるものですね。
三国志演義では、
関羽に一方的にあしらわれたように描かれていますが、
実際の魯粛は、関羽相手に一歩も引かず、
劉備・関羽側に非があることを責め続けます。
これに対して、関羽は一言も言えなくなったそうです。
結果的に荊州南部のうち、
長沙・江夏・桂陽の3郡を取り返しています。
魯粛と孫権①
孫策がこの世を去り、
孫権が跡目を継いだ時の話です。
魯粛が初めて孫権と話した時に、
孫権は魯粛のことを大変気に入って、
二人だけで天下について論じあったといいます。
その時孫権に対して、
「漢を復興することは既に無理なことです。
また曹操も簡単に倒すこともできません。
残された道は、江東の地を完全に確保し、
この地で時代の移り変わりを見極めていくのです。」
と魯粛は語っています。
魯粛がこう語った真意として、
孫権が皇帝になることを暗黙のうちに薦めていたのです。
これを聞いた孫権は、まだ孫策の跡を継いだばかりで、
「そんな事は考えてもいなかった」と答えるしかなかったと言います。
魯粛と孫権②
張昭が孫権に対して、
魯粛が「皇帝になれ」など思い上がっていると孫権に伝えた事もありますが、
孫権は聞く耳を持たなかったといいます。
また孫権の家臣である厳畯(げんしゅん)が、
「魯粛を評価しすぎてるのではないか」といわれた時もありました。
※厳畯は張昭の推薦で、孫権に仕えています。
「彼は漢王朝が既に再起不能で、
皇帝につくようにいっているのはそれが前提の一貫した考えがもとである。
また後漢として漢を復活させた劉秀(光武帝)も、
はじめは皇帝になる気がなかった。
しかし家臣である鄧禹(とうう)が漢を復興する事を勧めたため、
劉秀は志を高くして、結果的に皇帝になれた。そんな鄧禹と魯粛は同じだ」と
厳畯に対して述べています。
これを聞いた厳畯は大いに納得したそうです。
229年に、孫権が皇帝に即位した時、魯粛に敬意を示しています。
「魯粛にはこの未来が見えていたのだ」と・・・。
魯粛と孫権③
赤壁の戦いで勝利した際、魯粛が帰ってきます。
魯粛が帰ってきた事を知ると、孫権自ら魯粛を迎えます。
そして孫権は、
「私が貴方の馬を支えて馬から降ろしたならば、
あなたの功績に報いた事になるのか?」と魯粛に問いかけます。
しかし、魯粛はこれに対して次のように返します。
「それじゃ報いた事になりません!」
それを聞いた孫権も周りの家臣達も驚きますが、
続けて魯粛は次のように語っています。
「将来孫権様が、皇帝になった時に、特別な馬車で私を迎えに来てくれた時に、
初めて私の功績に報いた事になるのです!!」
これを聞いた孫権は大いに納得し、喜んだと言います。