「泣いて馬謖を斬る」

横山光輝三国志(53巻19P)より画像引用

 

この故事は孔明の愛弟子であった馬謖が

命令違反をして、魏の張郃に大敗してしまいます。

 

孔明の心情としては、

可愛がっていた人物なので許してあげたいけれども、

 

馬謖の犯した罪は重く、

軍律の公正化の為に泣きながら切ったというものです。

 

 

現在でも誰であろうと失敗やミスを犯した時には、

厳正に対応しなければいけない時にこの故事が使われたりします。

馬謖が切られた経緯

第一次北伐

孔明は、漢を復興させるために、

魏を打つことを決意します。

 

そして魏に勝負を挑み(第一次北伐)、

連戦連勝で魏との戦争を優位に進めていきます。

 

そして街亭という要所の守りを誰にするか悩んでいると、

馬謖(ばしょく)が立候補します。

 

 

孔明は、馬謖に対し、

この要所を守る事がどんなに大事かを説き、

 

街亭に陣を構える時は山の麓を抑え、魏が進めないように指示します。

 

 

あくまでこれは三国志演義の話で、

 

正史では「街亭に向かえ」と言ってはいるものの、

「街亭の麓を抑えよ」と言ったというような記録はありません。

 

細かに話すと、正史と三国志演義で大まかな流れこそ同じですが、

微妙に違う点もありますので、ここでは三国志演義の話を元に進めていきます。

馬謖、山の上に陣を築く

目的地についた馬謖は、何を思ったか、

孔明から支持を受けていた山の麓を抑えず、山頂に陣を構えます。

 

馬謖の副将になっていた王平(おうへい)は、

馬謖のこの行動を諫めたわけですが、

 

馬謖は「お前の考えは子供みたいだ」と嘲笑したのでした。

 

 

王平は立場的にもそれ以上に馬謖に逆らえずに、

しぶしぶ少数の兵のみで、単独で山の麓に陣を敷くことになります。

常に周りの期待に応え、最終的に「漢中の守護神」として漢中を守り抜いた王平

魏軍に山頂を包囲される

山の麓を抑えない陣形を見た魏は、

 

「この戦争は勝ったも当然である!

山頂に陣を築いたやつはどうしようもない奴だ!!」

と勝利を確信したわけです。

 

 

山頂に陣を築いた馬謖軍は、

山の麓にあった川の水を抑えられてしまったことで水不足に陥ります。

 

その上で山を完全に包囲され、馬謖軍は身動きが取れなくなってしまうのでした。

 

 

そしてろくに食べ物も食えない有様で、

兵士の士気は大きく下がってしまい、降伏する兵士達が後を絶たず・・・

 

 

馬謖はこのままでは「死を待つだけだ」だと判断し、

包囲している魏軍に対して突撃してなんとか包囲を突破はするものの、

 

要所である街亭を魏軍に取られてしまった蜀軍は、

一気に壊滅状態に陥ります。

 

戦犯馬謖

横山光輝三国志(53巻22P)より画像引用

 

連戦連勝だった蜀軍が、馬謖の命令違反一つで壊滅してしまった。

この罪は許されるものではなく、馬謖を泣きながら処刑されてしまったのでした。

 

その際に馬謖の残された子供達は、

馬謖の生前と変わらぬ待遇を受けたといいます。

 

 

そして馬謖が切られた事を知った兵士達は、

 

軍律を守る事の大事さを再確認し、戦に負けたにも関わらず、

士気が下がらなかったばかりか士気が上がったそうです。

正史からみる「泣いて馬謖を斬る」

演義では、長く記載されていますが、

 

正史では「馬謖は牢獄に送られて死んだ!

孔明は馬謖を思って泣いた」と簡潔に述べられています。

 

 

また正史に注釈を加えた裴松之は

「人材が不足している蜀で、優れた人物を死に追い込み、

そもそも二流の人材を登用している愚を犯している。

 

そして軍令などのルールを人材よりも大事にしている。

これでは大業を果たせるわけがない」とかなり厳しめに孔明を批判しています。

第一次北伐の戦犯となってしまった馬謖

まとめ

正史・三国志演義にしろ、裴松之の注釈にしろ、

それぞれ違った書き方がされています。

 

 

もちろん裴松之が言いたいこともよく分かりますが、

 

愛弟子であった馬謖だからこそ、

やはり厳しくする必要があったのも事実だと思います。

 

 

「愛弟子だから大目に見る」という事をしていれば、

人材・戦力が魏・呉より不足している蜀が漢復興など目指せるはずがなく、

 

 

「誰もが規律を守り、

同じ方向を目指すという姿勢」

 

この時の蜀には必要不可欠だったのではないでしょうか・・・