三国志の最後の勝利者と言えば、

まぁ魏を滅ぼして天下統一を成し遂げた司馬一族でしょうね。

 

 

そんな司馬一族の立場を確固たるものにした人物として、

 

誰からも真っ先に名が挙がる人物と言えば、

間違いなく司馬懿(仲達)でしょう!

 

 

逆に司馬懿を吹っ飛ばして、

司馬師・司馬昭・司馬炎の名を上げる人がいれば、

 

少しひねくれて人かもしれませんね。

 

 

まぁ三国志を知らない人から言えば、

晋を建国した司馬炎の名前しか知らないという人はいるかもしれませんが・・・

 

 

ではそんな晋の礎を築いた司馬懿という人物について、

ここでは見ていこうと思います。

名門出身、司馬懿(仲達)

司隸河内郡温県出身である司馬懿ですが、

河内郡と言えば、司馬一族の故郷でも知られている場所になりますね。

 

司馬懿は春秋戦国時代の殷王であった司馬卬の末裔で、

司馬防の次男としてこの世に生を受けています。

 

 

司馬防の長男は誰かという人の為に少しだけ書いておくと、

司馬朗というんですが、まぁ一言で言うとそれなりに有名な人です。

 

それを言うと三男である司馬孚も同様ですが・・・

 

 

 

司馬懿は兄や弟と同様に、

父親であった司馬防から厳しく育てられることとなります。

 

そんな中で育った司馬懿は優秀な人物に育っていき、

「司馬八達」という言葉が誕生していたりします。

 

 

これは司馬朗・司馬懿・司馬孚含み、他にも五人の弟がおり、

 

全員のあざなに「達」がついていたことから、

「司馬八達」という言葉が生まれたわけです。

  • 司馬朗(伯達)
  • 司馬懿(仲達)
  • 司馬孚(叔達)
  • 司馬馗(季達)
  • 司馬恂(顕達)
  • 司馬進(恵達)
  • 司馬通(雅達)
  • 司馬敏(幼達)

 

 

勿論それだけの意味ではなく、

 

「優れていた者達」であったことから、

「八人の達人」という意味合いが組み込まれていたりします。

 

 

そんな「司馬八達」に数えられた司馬懿ですが、

張春華と結婚していますね。

 

まぁこの女性も結構癖が強かったりするのは余談です。

張春華 -司馬懿の正室で、激しい性格の持ち主-

曹操へ仕官を決意

司馬一族の噂を聞いた曹操は、

司馬朗・司馬懿などに声をかけますが、

 

司馬懿は病気と称して、曹操に仕官することはありませんでした。

 

 

まぁこの時の流行的な考え方として、

長く出仕を断り続けることが良いとされていた時代でもあったのも理由の一つではあるんですが・・・

 

結果として司馬懿は、

七年間に渡って曹操を拒否し続けていますね。

 

 

最終的には観念して曹操に仕えることになるのですが、

これには大きく三つの説があったりします。

  • 荀彧・崔琰に推薦された事がきっかけとなる
  • 曹操に脅される形で仕官する
  • 曹洪との交遊を拒否→曹操に告げ口される→曹操から再度仕官を迫られる→司馬懿は罰せられるのを恐れて仕官する

 

個人的には曹操に脅されて仕官したが一番しっくりきていますが・・・

曹丕から絶大な信頼を得る

曹操に仕官した司馬懿ですが、

太子であった曹丕から大変な信頼を得る事になります。

 

特に曹丕が信頼した四人の者達がいたのですが、

「太子四友」と呼ばれる彼らの一人に抜擢されたのが司馬懿でした。

 

 

ちなみに司馬懿の他の「太子四友」も紹介しておくと、

陳羣・呉質・朱鑠の三名が挙げられますね。

 

陳羣は徐州牧出会った劉備に仕えた人物でもあるわけですけど、

劉備から離れてからは曹操・曹丕の元で右肩上がりで出世しています。

「九品中正制度(九品官人法)」の産みの親、陳羣(ちんぐん)

 

 

このように曹丕から大変な信頼を受けていた司馬懿ですが、

曹操からはかなり警戒されていました。

 

 

曹操が漢中の張魯を降した際には、

その勢いそのままに益州への進出を進言することもありましたが、

 

司馬懿の意見が曹操に採用されることはなかったのです。

 

 

 

まぁ実際に採用されていたとしても、

結果は神のみぞ知るみたいな所だった気はします。

 

ただ劉備は曹操が漢中を手中に収めて、大変焦っていたのは事実ですけどね。

 

 

当時孫権と荊州問題で争っていたけれども、

 

この時に劉備が長らく返還を拒否していた桂陽・長沙の二郡を、

正式に孫権へと返還したほどでしたから・・・

司馬懿の献策&曹操の採用

司馬懿は曹操から警戒されていたのをきちんと理解しており、

 

謙虚な態度を貫き続けた事で、

次第に曹操に認められるようになっていきます。

 

それだけでなく曹丕自身も

曹操と司馬懿の間を取り持ったりもしていたようなので尚更ですね。

 

 

それらの積み重ねもあってか、関羽が樊城攻撃をしてきた際に、

曹操が許昌から遷都を考えていましたが、

 

「関羽の勢いは一時的なもので、

これしきの事で遷都するものではない!」

との司馬懿の意見を曹操は採用しています。

 

 

ちなみに関羽の対応策として、

「孫権と結んで、関羽を討伐する」

という策を講じたのも司馬懿なのは余談です。

曹操(孟徳) -中華統一以上のモノを未来へ残した超人-

曹操の死&曹丕の皇帝即位

曹操が死亡すると、太子であった曹丕が跡を継ぎ、

後漢を滅ぼして「魏」を建国します。

 

 

曹丕から信頼されていた司馬懿は、

225年には仮節・撫軍大将軍・録尚書事に任じられることに・・・

 

その時に兵権(五千人)も与えられていますね。

 

 

ただ曹丕が曹操の跡を継いで6年後、

あっさりと曹丕は病死してしまいます。

 

曹丕は死の間際に曹叡を跡継ぎに決定し、

その補佐を陳羣・曹真・曹休らと共に司馬懿に託すのでした。

曹丕 -漢を滅ぼし、魏を建国した初代皇帝-

曹丕の死&曹叡の即位

曹丕の遺言により曹叡の補佐を任された司馬懿でしたが、

曹叡からも大きな信頼を得ていくこととなります。

 

 

呉が侵攻してきた際には徐晃と協力して破ったりと、

軍事的な活躍が増えていくことになり、

 

その功績により、

驃騎大将軍にまで出世していくこととなります。

 

それからの司馬懿はというと、

荊州・豫洲方面全体の守備を任されていく方向に・・・

 

 

 

ちなみに上図からも分かりますが、

司馬懿は曹真・曹休に次ぐ将軍的立場であり、

 

対蜀には曹真、対呉には曹休があてられていますね。

 

これに対して司馬懿は時には対呉、

時には対蜀みたいな立ち位置だったのでしょう。

諸葛亮の侵攻を防ぎ切った魏の名将、曹真

曹操に「我が家の千里の駒」と高く評価された曹休

諸葛亮の第一次北伐(孟達の死)

長らく沈黙を保っていた蜀ですが、

国内を安定させた諸葛亮は劉備との悲願であった魏討伐に立ち上がります。

 

一般的に知られる諸葛亮の北伐ですね。

 

 

この時に諸葛亮は、

元々蜀臣であった孟達を抱き込んでいましたが、

 

荊州・豫洲全般を任されていた司馬懿によって、

孟達は討たれてしまったのでした。

 

 

その経緯の内情として、孟達は司馬懿が滞在していた宛城から、

1カ月程度はかかると予測していたものの、

 

司馬懿はたったの8日で孟達が守る城に到達したことで、

その読みは大きく見誤ったというのは有名なお話です。

 

諸葛亮自身も街亭で敗れてしまったことで、

完全に蜀の敗北で終わったのでした。

 

 

それからしばらくして、曹叡の命令で呉に攻め込んだりしましたが、

これは失敗に終わったりしています。

 

ちなみにですけど、この時に司馬懿の攻撃を防いだのは、

江陵を守っていた呉の朱然ですね。

 

そんな司馬懿ではありますが、

230年に大将軍にまで上りつめることとなります。

孟達の反乱(第一次北伐)の情報漏洩は、諸葛亮の告げ口だった!?

司馬懿VS諸葛亮(第二次北伐~第四次北伐)

第一次北伐を見事に防ぐことに成功した魏でしたが、

そんな最中で対蜀を任されていた曹真が、この世を去ってしまいます。

 

その後任を任されることになるのが司馬懿でした。

 

 

司馬懿は諸葛亮への対策として、

 

なるだけ防御に徹しまくるという手段を貫き、

何度も蜀の攻撃を防ぐことに成功!

 

 

しかし第四次北伐の際には、

司馬懿は張郃に蜀軍を追撃させるという愚策を・・・

 

 

もともと蜀軍追撃に反対していたのが張郃であり、

「城を包囲する際には、

必ず逃げ道を開けておくものであり、

 

撤退する軍に迫ってはなりませぬ!!」

と司馬懿に進言したといいます。

 

 

しかし司馬懿は張郃の言葉を聞き入れなかっただけでなく、

 

張郃に追撃させた結果、

諸葛亮によって討ち取られてしまう事に・・・

 

ちなみにですが、この時に張郃を破った部隊が、

赤甲兵(特殊連弩部隊)だと言われたりしていますね。

諸葛亮との最後の戦い(五丈原の戦い)

諸葛亮との最後の戦いになったのが、

第五次北伐である五丈原の戦いでした。

 

この戦いに長期戦の構えで挑んだ諸葛亮でしたが、

最後まで防御の構えを崩さなかった司馬懿の前に力尽きてしまいます。

 

 

諸葛亮は最後までなんとか司馬懿を誘いだす手段を講じますが、

その挑発に最後まで司馬懿が乗ることはなかったのです。

 

有名なところで言うと、

「お前は女か!?」

といって女性の服を送って挑発したことでしょうね。

 

 

諸葛亮の死で退却を始めた蜀軍でしたが、

諸葛亮の死を知った司馬懿は急いで追撃を開始!!

 

しかし後詰として残っていた蜀の軍勢が攻撃してきた様子を見た司馬懿は、

すぐに追撃をやめさせたといいます。

 

これによりかの有名な

「死せる孔明、生ける仲達を走らす」

という言葉が誕生したわけです。

 

 

そんな言葉が生まれた事を知った司馬懿は、

次のように語ったと言われています。

 

「生きている者であれば対処できるが、

死んでしまった者をどうすることもできぬよ!」と・・・

 

まぁ司馬懿の言っていることももっともな事だとは思いますが、

単純に負け惜しみだとも言えるでしょうね。

⑮諸葛亮の北伐(第1次〜第5次)

 

 

そんなこんなで諸葛亮の北伐を防ぎ切った司馬懿ですが、

翌年には三公の軍事担当にあたる大尉に就任しています。

 

既に大将軍であった司馬懿が、

軍事担当である大尉まで得たとなると虎に翼がという事に・・・

後漢の官僚制度(三公九卿)

公孫淵討伐

長らく遼東半島で独自勢力を築いていた公孫一族ですが、

この時に遼東半島を支配していたのは公孫淵という人物でした。

 

公孫淵は父親(公孫康)の弟である公孫恭を脅迫して、

太守の座を奪った人物であり、野心多き人物でした。

 

 

公孫淵は魏と呉の両国を天秤にかけた二股外交をやったりしたことで、

魏・呉両国から敵対視されていくことになります。

 

そして曹叡の名のもとに都へくるように公孫淵に命令が下りますが、

その命令に背く形で兵を率いてきていた毌丘倹を撃退!!

 

 

そして燕を建国したのでした。

 

ちなみに元号は「紹漢」なわけですが、

これは「漢を継いだ国」という意味があったりします。

 

 

これに完全に激怒したのが曹叡で、

司馬懿に命じて公孫淵討伐に命令を出したわけです。

 

 

その際に司馬懿に対して曹叡は、

「どのくらいの期限で、

どうやって公孫淵を討伐するのか?」と尋ねると、

 

「1年もあれば余裕です。

 

また公孫淵が取れる対策は、

それは城を捨てて逃亡(上策)or遼水での対峙(中策)or篭城(下策)の三つしかなく、

 

もし公孫淵が利口ならば逃げる事もできましょうが、

公孫淵は馬鹿なので逃げる事もしないでしょう。」

と言って曹叡を納得させたといいます。

 

 

 

そして司馬懿は公孫淵との戦いに突入していくわけですが、

結果は司馬懿の大勝で幕を閉じます。

 

この戦いは遼隧りょうすいの戦いなんて呼ばれています。

 

 

公孫淵は城の陥落間際に和議を申し出たものの、

「戦いには5つのポイントがある!

 

戦えるならまず戦い、戦えなければ守り、守れなければ逃げるしかない。

逃げる事すらできない場合は降伏か死ぬしかないのだ・・・

 

 

それなのにお前が最後に選択したのは降伏ではなく和議であった。

ならばお前に残された選択肢は死ぬ以外にないだろう。」と一蹴!!!

 

 

 

これを聞いた公孫淵は逃亡を試みるものの、

司馬懿にあっさりと討たれてしまったことで幕を閉じます。

 

その後に司馬懿は襄平の城を陥落させるのですが、

15歳以上の男子を数千人規模で全て殺害するという非情な措置を取ったのでした。

 

ただ司馬懿は曹叡に出陣前に言った通り、

たったの1年で公孫淵討伐を成し遂げることに成功したのです。

二股外交の先に、独立国を夢見た公孫淵

司馬懿の大芝居

公孫淵討伐を短期間で成し遂げた司馬懿でしたが、

魏皇帝である曹叡は病の中に・・・

 

 

そして自分の命が長くない事を知った曹叡は、

 

曹芳を跡継ぎとし

司馬懿と曹爽(曹真の息子)に補佐を任せたのでした。

 

まぁ実際には司馬懿&曹爽ではなく、

本当は曹宇に補佐を任せようとしていたんですけどね。

 

色々あってそれが却下され、司馬懿・曹爽に・・・

 

 

 

それから間もなくとして曹叡が亡くなりますが、

遺言通りに司馬懿と曹爽が曹芳の補佐を任されることになります。

 

ただここで司馬懿を煙たがった曹爽一派の者達が、

司馬懿を排除する行動に出たことで事態は大きく変わっていったのでした。

 

 

これにより名誉職である太傅(太子の教育係)に祭り上げられてしまった司馬懿ですが、

想像以上に曹爽警戒されていたことを知って自重する生活を送ります。

 

 

そして曹爽の使者が来るたびに、

 

司馬懿はボケたふりをしたり、

薬をうまく飲めずに垂れ流す様子を見せたりしたのです。

 

 

 

この様子を伝え聞いた曹爽は、

司馬懿の命も長くないと完全に油断!!

 

しかしこれらは完全に司馬懿の芝居だったわけで、

 

曹爽らが油断して都を離れたすきに、

司馬懿はクーデターを起こし、

 

一気に朝廷内を制圧することに成功したのでした。

 

 

洛陽を離れていた曹爽は完全に驚くも後の祭りだったわけでして・・・

 

これにより曹爽一族をはじめ一派は全員処刑されてしまい、

完全なる司馬一族の時代への道を開いたのでした。

蜀討伐で威勢を高めようとして威勢を失墜させてしまった曹爽

最後の言葉

司馬一族の力があまりに強大になったことで、

 

それに大きな危機感を覚えた王淩は、

曹操の息子であった曹彪を担いで実験を取り戻そうと画策します。

 

 

しかしこの計画は事前に漏れてしまい、

王淩は自殺に追い込まれて自殺・・・

 

半ばとばっちりを受ける形で曹彪にも自殺が命じられることになるわけで・・・

 

 

司馬懿はこの件があってからというもの、

 

曹一族が連絡を取って良からぬ事を考えないように、

鄴へ押しやったりしていますね。

 

 

そんな中で司馬懿は病没するわけですが、

司馬懿は自分の体験談を息子である司馬師・司馬昭へ告げたといいます。

 

「私は周りから警戒され続けてきたからこそ、

ずっと慎重に生きてきたのだ!

 

だからこそお前達も慎重に生きることを忘れるな!!」と・・・

「狼顧の相」の持ち主、司馬懿