曹叡の崩御&曹芳の即位
遼東の公孫淵を滅ぼし、魏の勢力を遼東まで大きく広げた曹叡でしたが、
その翌年、思いもよらぬ事態が起こります。
魏の明帝・曹叡が、景初三年(239年)に崩御したのです。三十代半ばという若さでした。
曹叡には皇太子として明確に定められた成人の後継者がおらず、
そこで後継者として迎えられたのが、当時まだ幼かった曹芳でした。
曹芳は曹叡の養子として宮中で育てられていた人物で、この時わずかな年齢で魏の皇帝となります。
しかし、幼い皇帝に国家の政務を任せることはできません。
そこで曹叡は臨終に際して、曹爽と司馬懿に曹芳の後見を託しました。
こうして、魏では曹爽と司馬懿という二人の有力者が幼帝を支える体制が始まります。
ところが、この二人が協力して政務を執ったのは長くありませんでした。
やがて曹爽と司馬懿の間には、魏の実権をめぐる激しい対立が生まれていくことになります。
曹爽と司馬懿
当初、司馬懿は軍事・政治の両面で非常に大きな実績を持つ人物でした。
一方の曹爽は曹氏一族の出身で、魏の皇帝を支える立場にありました。
曹爽は司馬懿の実力と人望を警戒するようになり、次第に司馬懿を政治の中心から遠ざけようとします。
その一環として、司馬懿を太傅に昇進させました。
太傅は極めて高位の官職でしたが、実際の軍事・政治権力から切り離す意味合いも強く、
曹爽は司馬懿を名誉職に近い立場へ追いやることで、自分が魏の政治を主導しようとしたのです。
そして曹爽は弟の曹羲・曹訓ら一族を重要な官職に就け、
さらに腹心の何晏・鄧颺らを重用するなど、自らの政治基盤を固めていきました。
こうして魏の朝廷は、次第に曹爽を中心とする勢力と司馬懿を中心とする勢力に分かれていくことになります。
ただし、この時点で司馬懿が完全に政治的影響力を失ったわけではありません。
司馬懿は表立って曹爽と争うのではなく、じっと機会を待つ道を選びました。
後の「高平陵の変」へとつながる、長い沈黙の始まりでした。
魏の高句麗討伐

一方、この時期の魏では、国内政治だけでなく東方への勢力拡大も進んでいました。
その大きなきっかけとなったのが、238年に司馬懿が公孫淵を討伐し、遼東を魏の支配下に置いたことです。
遼東を掌握した魏は、さらに朝鮮半島方面へと影響力を広げていきます。
そこで問題となったのが、高句麗でした。
高句麗は魏に対して従属的な態度を取ることを拒み、魏との緊張が高まっていきます。
そして正始年間(240年~249年)、毌丘倹が高句麗討伐を指揮することになります。
毌丘倹は高句麗の王・位宮と戦い、
正始五年(244年)には高句麗の都である丸都城を攻撃しました。
しかし、ここは少し注意が必要です。
高句麗が一度の戦いで完全に滅亡したわけではありません。
位宮は戦場から逃れ、高句麗そのものも存続しています。
その後も魏軍による追撃が続き、高句麗は大きな打撃を受けることになりますが、
魏が高句麗を完全に併合したわけではありません。
高句麗はその後も存続し、魏の東方政策に対抗していくことになります。
得来の逸話
この高句麗との戦いに関連して、正史には興味深い逸話も残されています。
高句麗の重臣であった得来は、
魏と争えば高句麗が大きな災厄を受けることになるとして、
王の位宮を繰り返し諫めたとされています。
しかし、その忠告は聞き入れられませんでした。
魏軍によって高句麗が大きな被害を受けた後、毌丘倹は得来の忠節を知り、その墓を壊すことを禁じ、さ
らに得来の妻子を見つけても殺してはならないと命じたと伝えられています。
この逸話からも、毌丘倹が敵国の忠臣に対して一定の敬意を示していたことがうかがえます。
司馬懿の反撃 -高平陵の変-
高句麗との戦いが進んでいた一方、
魏の中央では曹爽の権力がますます強くなっていました。
しかし曹爽の政治には問題も多く、
彼の一派が重要官職を独占することで、朝廷内には不満が蓄積していきます。
その間、司馬懿は表向きには病気を理由として政界から距離を置いていました。
特に有名なのが、曹爽の腹心である李勝が司馬懿を訪問した際の出来事です。
| 司馬懿は自分が重病で、もはや政治を行う力など残っていないかのように振る舞いました。
この姿を見た李勝は、司馬懿にはもはや曹爽の脅威となる力はないと判断します。 |
しかし、これは司馬懿が曹爽を油断させるための行動だったとされています。
そして正始十年(249年)、ついにその機会が訪れます。
曹爽が曹芳を伴って高平陵へ赴き、都を離れたのです。
その隙を突いて、司馬懿は兵を動かします。
司馬懿は皇太后の命令を得て洛陽の要所を掌握し、宮城と武器庫などを押さえました。
曹爽は大軍を率いて洛陽の外にいましたが、
司馬懿によって都を制圧されてしまったため、極めて不利な状況に追い込まれます。
最終的に曹爽は司馬懿の言葉を信じて兵を解き、政権を明け渡しました。
しかし、その後に待っていたのは厳しい結末でした。
曹爽とその一派は処刑され、曹爽一族も大きな犠牲を出すことになります。
これが後世に「高平陵の変」と呼ばれる政変です。
この事件によって、魏の実権は大きく司馬懿の手へと移りました。
司馬氏の台頭と司馬懿の死
高平陵の変以降、
魏の政治における司馬氏の影響力は急速に強まっていきます。
ただし、この段階で司馬懿が魏の皇帝になろうとしたわけではありません。
あくまでも曹氏による魏の皇帝位を維持したまま、司馬氏が政治と軍事の実権を握るという形でした。
そして高平陵の変からわずか二年後の嘉平三年(251年)、
司馬懿は病のため死去してしまうわけですが、
司馬懿が残した政治的基盤は、息子の司馬師、さらに司馬昭へと受け継がれていきます。
ここから魏では、曹氏の皇帝をいただきながら、
実際の政治権力を司馬氏が握るという構造が次第に明確になっていきます。
兎にも角にも後の西晋成立へとつながる大きな転換点が、この高平陵の変だったのです。
二宮の変(孫呉の後継者問題)

魏で司馬氏が台頭する一方、呉でも深刻な問題が発生していました。
それが、後世に「二宮の変」あるいは「二宮事件」と呼ばれる後継者争いです。
もともと孫権には、非常に期待されていた太子・孫登がいました。
孫登は人格・才能ともに評価され、呉の将来を担う皇太子として多くの臣下から期待されていました。
しかし、孫登は赤烏四年(241年)に病死してしまいます。
このことによって、呉の皇位継承問題が大きく揺らぐことになりました。
その後、孫権は三男の孫和を太子に立てます。
ところが、孫和の弟である孫覇もまた非常に厚遇されるようになり、次第に孫和と孫覇の間で対立が深まっていきました。
問題は、単なる兄弟喧嘩ではありません。
それぞれを支持する臣下まで二つの勢力に分かれてしまったのです。
これが「二宮の変」です。
孫和派と孫覇派

孫和を支持する勢力には、陸遜・諸葛恪・朱拠・吾粲・顧譚らがいました。
一方、孫覇を支持する側にも有力な臣下が集まり、朝廷は次第に二分されていきます。
特に問題となったのは、太子である孫和と、
魯王である孫覇の待遇が十分に区別されなかったことでした。
臣下たちは、
「太子と王の身分を明確に区別しなければ、後継者争いにつながります」
と孫権に繰り返し諫言します。
なかでも陸遜は、太子の地位を明確にし、孫覇との身分上の違いをはっきりさせるよう求めました。
しかし、この問題はますます深刻になっていきます。
この二宮の争いによって、多くの有力者が処罰されました。
そして孫和を支持していた陸遜もまた、孫権から厳しい叱責が繰り返されるようになります。
陸遜は長年にわたって孫呉を支えてきた名将でした。
夷陵の戦いで劉備を破った人物でもあり、
孫権にとって非常に重要な臣下だったことは間違いありません。
しかし二宮の争いの中で、陸遜は政治的に追い詰められていきます。
そして赤烏八年(245年)、陸遜は失意のうちに病死しました。
こうして呉を代表する名将の一人が、後継者争いによって命を落とすことになりました。
孫和廃嫡、孫覇の死
二宮の争いは、やがて孫権自身によって決着がつけられます。
しかし、その決着は非常に厳しいものでした。
孫和は太子の地位を廃され、庶人に落とされます。
一方、孫覇には死を命じられました。
つまり、太子だった孫和も、対抗勢力だった孫覇も、
どちらも後継者の座から消えてしまったということです。
そして新たに太子として立てられたのが、孫権の子である孫亮でした。
この決断によって二宮の争いそのものには終止符が打たれましたが、その代償はあまりにも大きなものでした。
陸遜をはじめとする多くの有力者が失われ、呉の政治中枢には深い傷が残ることになったのです。
孫権の晩年と呉の混乱
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ここで、孫権の晩年については少し慎重に見ておく必要があります。
「孫権が晩年に錯乱してしまった」と断定することは、正史の記述からはできません。
ただし、晩年の孫権が臣下への処罰を繰り返し、
後継者問題をめぐって朝廷を大きく混乱させたことは事実です。
若き日の孫権は、周瑜・魯粛・呂蒙・陸遜ら多くの有能な臣下を用い、魏や蜀漢と互角以上に渡り合ってきました。
ところが晩年になると、後継者問題をめぐってその臣下たちを対立させる結果となってしまいます。
その意味では、二宮の変は孫権晩年の政治を象徴する事件だったと言えるでしょう。
神鳳元年(252年)、孫権はついに崩御しますが、
この政治的分裂を完全に修復できなかったことは、後の呉の歴史を考えるうえで非常に重要なポイントになります。
そして長年にわたって呉を率いてきた孫権の後を継いだのは、まだ幼い孫亮でした。
孫亮が即位すると、当然ながら皇帝自身が政治を主導することはできません。
そこで大きな役割を担ったのが、諸葛恪(諸葛瑾の息子)でした。
諸葛恪は孫権から後事を託されていた有力者であり、孫亮の即位後には呉の政治を主導する立場となります。
こうして呉は、孫権という巨大なトップを失い、
幼い皇帝を有力臣下が支える時代へと移っていくことになります。
東興の戦い(魏VS呉)
孫権の死は、当然ながら魏にとっても大きな機会でした。
魏は呉に対して軍を動かし、嘉平四年(呉:建興元年/252年)には東興方面を攻撃します。
ところが、この遠征は魏にとって成功には終わりませんでした。
諸葛恪率いる呉軍が魏軍を迎え撃ち、東興の戦いで大きな勝利を収めます。
これによって諸葛恪は名声を大きく高めることになります。
呉を待ち受ける新たな権力闘争
孫権亡き後の呉では、新たな権力闘争が始まっていきます。
孫亮は幼く、政治の実権を握ることができません。
そのため、諸葛恪をはじめとする有力臣下が政治を動かすことになります。
そして、その後の呉では諸葛恪、孫峻、孫綝らによる権力争いが続き、皇帝の地位も次第に不安定になっていきます。
なお、ここは時系列上重要な点です。
まず諸葛恪が実権を握り、その後、孫峻による政変によって諸葛恪が失脚・殺害され、
さらに孫峻の死後には孫綝が台頭していくことになります。
そして最終的には、孫亮自身も皇帝の座を追われることになります。

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